●八月十日事件 はちがつとうかじけん
ヨーロッパ フランス共和国 AD1792 第一共和政
フランス革命中,1792年にパリでおこった王政打倒の事件。1791年の憲法は破綻し,革命は第一共和政に向けて新段階を画した。1792年4月20日,オーストラリアに対する宣戦布告後,フランスの前線軍は敗北の連続で,ラファイエットは攻撃不能を宣言した。ジロンド派内閣はパリに臨戦体制をしき,宮廷の軍事的策動を抑制するために,5月29日に近衛兵の解散と,6月8日には連盟兵の城外兵営設置を提案したが,国王ルイ16世の拒否権にあっただけでなく,同派内閣の罷免に及んだ。このため6月20日,ジロンド派のペチヨン市長を先頭にパリ市民による示威運動がおこった。28日,ラファイエットはジャコバン協会の解散を企て,7月7日,市長は停職を命ぜられたが,愛国的感情が高まり,11日,立法議会は「祖国は危機にあり」の宣言を出し,ダントンの勧めもあってパリ諸区は国王行政権の停止を求める請願運動に進んだ。こうしたなかで7月25日のブリュンシュヴィック宣言がパリに伝わると,パリ市民の防衛意識は高まり,8月9日から場末区を皮切りに蜂起委員が任命され,翌10日国民衛兵隊や武装市民が国王のいるチュイルリー宮を襲撃・占領するや,蜂起コミューンとなって立憲コミューンを廃し,暫定的な市当局をそのなかから任命した。立法議会は国王権の停止を決定宣言し,ここに連綿として続いたブルボン朝は滅亡した。やがて8月13日,国王一家はタンプル塔内に幽閉された。8月末,蜂起コミューンの活動分子は監視委員会を設け,宣誓拒否僧の追放,各自治区内王党派の武装解除と告発を行った。1792年の恐怖政治ともいわれる。新しい憲法を制定する国民公会を召集することを決めて立法議会は解散するが,ジロンド派は議会内外で蜂起コミューンの攻撃を始めており,ロベスピエールなど,のちの山岳派とも対立が芽生えていた。