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●旗本・御家人 はたもと・ごけにん

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 江戸時代に,将軍直属の家臣で,知行高1万石未満の者を直参と呼び,直参を分けて旗本と御家人の2種類とした。旗本は旗下の意であり,主将の本営であることを示す旗のもとで,側近を警衛する家臣を意味する。また御家人は将軍と主従関係を結んだ家臣を意味した。したがって両者は,元来身分的上下関係を含む語ではない。事実江戸時代においても,旗本・御家人,さらには譜代大名までをも含めて,広義の意味で御家人の語を使用する例もあるが,一般には旗本は将軍に御目見以上の者をいい,御家人は御目見以下の者と解するのが通例である。ただし,この区分も法的に確定されたものではなく,すでに江戸時代において旗本・御家人の区分は明確でない部分があった。たとえば旗本の石高は100石以上とする解釈があるが,実例ではそれ以下の旗本もある。また旗本は,小十人組頭以上の者であり,それ以下は,家筋は御目見以上でも旗本とはいわないという説,御家人番方の家筋に限り御目見に関係なしとする説もある。

【旗本】旗本は,三河以来の徳川氏譜代の家臣と,駿河,甲斐,信濃など徳川氏の勢力拡張に伴い吸収合併した各国の武士団,および徳川政権樹立後に譜代大名から分かれた庶流名門の子弟などを含んでいるが,武家以外にも儒者,医師,碁所,歌学方など技芸をもって召抱えられた者で,この身分に属する者もあった。家柄として御目見以上であることが条件であり,御目見以下の家柄の者が功績により,一時御目見以上に列せられた場合にも,当人一代限りでその子は御目見以下にとどまった。ただし,とくに永世御目見以上の申渡しを受けると御目見以上の家格に昇進したことになり旗本に列することになるが,それには通常御目見以上の者が任ぜられる役職を3度勤めることが内々の条件であったという。旗本の人数は1722年(享保7)の調べによると5,205人,知行の石高合計264万1900石となっている。知行高別の人数構成を1820年(文政3)の『国字分名集』によってみると,1,000石以上825家,500石以上が842家とあるから,総体からみると500石以下の小身の旗本の数が圧倒的に多数であったことがわかる。幕臣の官位叙任は従五位下からで,六位以下はないが,六位に相当する布衣という格がある。3,000石以上の大身の旗本で無役の者や,各役職の頭につくと,この布衣に任ぜられた。さらに昇進しておおむね3,000石以上となり,「守」に叙任されると,多くの場合従五位下となり,五位になると服装も公式には衣冠束帯,武家礼装としては大紋を着用した。旗本には江戸在府の義務があり,江戸で屋敷が与えられる。屋敷面積に一応の基準はあったが実態は基準どおりではなく,概していえば相当広い屋敷であった。旗本は老中・若年寄の支配のもとで番方・役方の諸役職につくが,役職につかない非役の者も多かった。非役で3,000石以上の者および布衣以上で役職の経歴のある者は寄合,それ以下の非役は小普請組に編入され,それぞれ家禄の石高に応じて小普請金を上納させられた。寄合・小普請組に編入された者には,勤務中の不始末により免職となり編入された者もあるが,多くは役職につく機会がないための待機組であったから,役職への登用いわゆる御番入を狙っての猟官運動が盛んであった。

御家人御家人には譜代,二半場,抱入(抱席)の区別があった。譜代は徳川家康から4代家綱までのあいだに,留守居与力・同心などの職を勤めた者の子孫,抱入は4代家綱以後大番与力・同心などに新規採用された者,二半場は家康から家綱までのあいだに西丸留守居同心などを勤めた者の子孫で,召抱えの年代は譜代と同じであるが譜代とせず,抱入との中間の意で二半場と称したという。譜代と二半場は隠居して家督相続させることができたが,抱入は一代限りの奉公で退役と同時に扶持を離れ御家人の身分を失った。しかし実際には伜が抱入として召抱えられることが多い。また抱入の席はいわゆる御家人株として売買することができた。御家人の人数は享保7年の調査で17,390人,これに支給される扶持米合計は55万3640石である。知行は一部地方知行もあるが大部分は扶持米取で,知行高の多い方では給地240石の者もあれば,最下級では4両1人扶持などもあり,概して小禄の貧乏御家人が多かった。したがって江戸時代後期になると御家人の内職が一般化し,なかには無頼化する者も現れた。

〔参考文献〕松平太郎『江戸時代制度の研究』1971,柏書房

新見吉治著『旗本』1976,吉川弘文館