●畑作儀礼 はたさくぎれい
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畑作には焼畑、切替畑、定畑などがあるが、畑作儀礼は山地の焼畑地帯と南島の定畑に多くみられる。畑作儀礼には、直接農耕を行う畑地・焼畑地で行う儀礼、いわば、農耕作業随伴儀礼と、畑地から離れたところで行う予祝的な儀礼とがある。なお、これらの儀礼のなかには呪術的要素を含むものも多い。
【焼畑農耕随伴儀礼】焼畑農耕随伴儀礼の基本構造は次のとおりである。[1]入山の儀礼(占有権の標示・小屋入りの儀礼)[2]伐木薙草の儀礼 [3]火入れの儀礼と呪術[4]種蒔きの儀礼と呪術 [5]虫除けの儀礼と呪術 [6]害獣害鳥除けの儀礼と呪術 [7]収穫の儀礼 [8]出山の儀礼、など。滋賀県伊香郡金居原では焼畑に拓こうとする地の四隅に萱の先を丸めたものをつくって占有権を示した。静岡県磐田郡佐久間町では焼畑を拓く場合、その地の上部に山の神と水神の幣を立て、輪作が終了した場合は終了を意味する形の幣を立てた。宮崎県児湯郡西米良村では焼畑地の木おろし作業に際して「朝の登り木の唄」「降り木の唄」など木おろし唄が歌われた。登り木の唄と神事のあとにはじめて木をおろす習慣があった。伐った木を焼くときにもさまざまな儀礼や呪術が行われたが、例えば、高知県土佐郡水川町寺川では焼畑の火入れに際して、まず防火帯のそとでジャコを焼き、「静かに焼けますように」と祈ってからその火を一度消し、次に焼畑地に火を入れる。そのとき、〈東方湿れ 西方湿れ
南方湿れ 北方湿れ 中央湿れ 飛ぶ虫は飛んで逃げよ 這う虫は這うて逃げよ〉と唱えた。宮崎県東臼杵郡椎葉村尾手納では、稗の種蒔きに際して、〈ただ今稗の種おろしをいたしもす。虫気葉枯れもせぬように1粒万倍(ひとつぶまんばい)とおおせつけやってたもれ〉と唱えた。宮崎県西都市古穴手では、稗粟の虫除けのために、焼畑の周囲を法螺貝を吹いてまわるという方法がとられた。秋、焼畑作物の稔りを荒らす害獣の王者は猪であり、猪を除けるために様々なくふうがなされてきたが、山犬が猪鹿を捕食したという事実から、焼畑地に山犬の神札を立てるという呪術が発生した。埼玉県秩父郡の三峰神社や静岡県磐田郡の山住神社などの山犬信仰はこうした土壌から発生したものであった。収穫儀礼として初穂を上げる地は多いが、石川県小松市小原では、“ナギガエシ”という本格的な収穫祭が行われた。
【雑穀の予祝】1月14日、15日の小正月に、ヌルデの木で「粟穂・稗穂」といった雑穀の穂の模造品をつくって門口や神棚に飾り秋の収穫を予祝する地は多い。埼玉県秩父郡荒川村ではこのアワボのことを肥花(こえばな)と称して堆肥小屋や畑へ立てた。長野県下伊那郡大鹿村中峰では門口に薪を並べ立て、その中央に柳または桜の枝にヌルデのアワボをたくさんつけて立て、これを“粟畑”と称した。長野県下伊那郡天龍村では、門口に薪を並べ立て、そこに、径6cm、長さ30cmほどのヌルデ9本ずつを振り分けにして“稗俵”と称した。宮崎県臼杵郡椎葉村でもコノミヤと称するアワボをつくった。こうした点から畑作儀礼体系のなかにおける小正月の重要性を再確認すべきであろう。
【南島の畑作儀礼】八重山地方では、粟の種おろしが盛んに行われた。黒島では、タナドリ(初種蒔き)をするのはその家の主人で、穂のまま保存しておいた粟種を畑にもって行き、径一尺ほどの地を耕し、願い口をして、そこに種をおろして“シミ”またはサン(竹富島ではフキという)と呼ばれる、葉先を結んだ萱を3本立ててくる。帰り道タナトリカヅラという蔓革を頭に巻き、種おろし唄を歌いながら帰る。新城島上地では、種おろしの行き帰りに人に会うと不作になると称し、へらを石コロで叩いて自分が種おろしにかかわる者であることを示して歩く。八重山にはこのほか、“畑屋の願い”“草葉の願い”“虫除け”“鼠除け”“収穫祭”などの儀礼がある。また、奄美大島には粟の祭りであるウフンメ(夏折目)と、フュルメ(冬折目)または“芋の遊び”と呼ばれるコーシャ(栽培山芋)の祭りがある。
〔参考文献〕坪井洋文『イモと日本人』1979、未来社
小野重明『奄美民俗文化の研究』1982、法政大学出版局
野本寛一『焼畑民俗文化論』1984、雄山閣