●畑作・畠作 はたさく
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陸田(乾田。ハタ,ハタケ)で穀物,野菜,果樹や桑,綿花などの原料作物を栽培すること。またその作物のこと。【田・畑・畠】畑・畠は国字。令制では五穀を殖える地をすべて田(でん)と称し(「令義解」),タとハタ・ハタケを区別していないが,実際には〈殖えし田も蒔きし波多気(はたけ)も〉(『万葉集』4122番)や保食神(うけもちのかみ)の屍に生えた〈粟稗麦豆を以て陸田の種子となし,稲を以て水田の種子となす〉(『紀』四神出生章)というように,万葉時代すでに水・陸田とその作付の違いは明確にできていた。中国では『晋書』伝玄伝に〈白田(はくでん)の収,十余斛(こく)に至る。水田の収,数十斛に至る〉とあり,陸田を白田と呼んでいる。国字の畠はこの白・田の合字である。
【日本古代の焼畑農業】『礼記』王制に〈昆虫未だ蟄(かく)れず。以て田を火(や)かず〉とある。日本でも『律』逸文・雑律に〈非時に田野を焼くは苔五十〉とあり,3月1日以後10月30日以前の非時に田野を焼くことを禁じて,〈もし郷土宜を異にせば郷法に依れ〉としている。律に先立つ郷土の慣習法の存在からみて,往古から行われてきた焼畑農業暦の存在が窺われる。万葉歌にも〈箱根の山に粟まきて〉(3264番),〈春日の野辺に粟まかましを〉(404番)などがある。天稚彦と雉の使の説話でも葦原中国は,インドの焼畑農耕民バーリア族の精霊ゴサインと同様の〈磐根・木株・草葉も猶よく物いう〉精霊の世界であり,夜はホエ※注1※(ほえ)が燃え盛り昼は五月蝿(さばえ)が沸き立つように喧騒な国で,粟や豆が生えているなど,焼畑農耕文化複合をもった国として語られている。896年(貞観9)に石上神宮の神域の山を焼いて禾豆を播いた百姓と神宮の争いがおきていて(『三代実録』),奈良〜平安時代に焼畑農業が現実に営まれていたことを示す。
【律令制国家の陸田奨励】693年(持統7)の勅に桑・紵・梨・栗・蕪菁など草木の栽培を勧め,五穀を補わしめよとあり(『日本書紀』),715年(霊亀1)の詔は陸田開発と粟・麦栽培の奨励を国司に命じ,719年(養老3)には天下の民戸に陸田1〜20町を給して段別粟3升の地子を納めさせる詔が出ている。水田稲作を軸とする班田収授体制のほかに,こうした陸田(白田・畠)給付政策がとられ,水田中心の三世一身法(723年)の失敗に鑑みた墾田永年私財法(743年)が発せられると,王臣寺社豪民の水・陸田墾開が急速に進むとともに,灌漑治水の能力をもたない庶民は家族労働力だけで耕地を取得できる焼畑や畠の開発に力を注ぎ,〈河に瀕い山を披いて雑処に群居,子々孫々相承けて居住,其の年紀を推すに百余歳に及〉んで〈口分并びに治田・家地を多く山中〉に拓いていった山城国相楽郡の百姓(『三代実録』寛平8年官符)のように民衆レベルでの山林原野の開発が進んだ。奈良時代後半から平安時代中頃にかけて,こうした百姓を調庸之民として掌握しようと努めた律令制国家は,畑作を含む陸田勧農政策の拡大強化をはかる一方,王臣寺社豪民が〈峯を踰(こ)え谷を跨(また)いで〉多く山沢を占め,百性の鎌斧を奪い(慶雲3.3.14詔『続日本紀』),〈貧窮の百姓,自存するに暇なく〉(天平神護1.3.5勅『続日本紀』),勢家への隷属を強いられている事態が天武朝以来のしばしばの制禁にもかかわらず一向に改まらないのは,王臣寺社の〈公家と相争うに似た〉反国家的所業に由るとして(承和12.6.23勅『類聚三代格』)彼らの山野占取を禁じる法令の発布を繰り返した。公私共利を基本理念とする律令体制の矛盾に根ざすこうした趨勢が公領と荘園の対立や競合を深めていった平安時代,荘園体制社会の形成発展を支える経済的要因として,水田農業に劣らぬ大きな比重をもちつつ,畑作を含む陸田農業の広範な発達が繰り広げられた。
【林田農業・牧畑農業の発達】水田や常畠に比べて単位面積比で人口支持率の低い焼畑農業は,平野や盆地周辺の山地部における森林破壊とエコロジカルバランス(生態系の均衡)の喪失を招き,その自己変革を迫られるが,平安時代を通し,土中にチッソを貯えて伐採後10年近く耕土として継続用益が可能で,建築・造船・家具その他各種の木工部門や染色部門の原料,資材源となるハンノキ属を植林し,20〜30年周期で耕地に切り替える林田農業や,牧と畑を切り替える牧畑農業が,農・工・牧畜の有機的に結合した新しい山野用益形態として開発され,水田や常畠の補完部門にとどまらぬ積極的な役割を担う生産部門として発達し,家産経済体制としての荘園制的生産様式を支える豊かな基盤を構成した。平安時代中頃から条里不施行地の山地部に開発が広げられ,『倭名類聚抄』の郷名には存在しない新しい郷や保が多くできたが,それは池溝構築を伴う水田の開発ばかりではなく,陸田の開発によるものが少なくなかった。鎌倉時代以降の中・近世においても,わが国の農業はこうした水田の米づくりと並ぶ畑(畠)作の発達によっておし進められた。
〔参考文献〕畑井弘『律令・荘園体制と農民の研究』1981,吉川弘文館
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