50音順    検 索

●バスティーユ占拠 バスティーユせんきょ

ヨーロッパ フランス共和国 AD1789 フランス革命

 1789年7月14日の,フランス革命の勃発を告げる事件。国民議会の成立(6月17日),封建的特権の廃止(8月6日),人権宣言の発布(8月26日),ヴェルサイユ行進(10月5日)と合わせて,1789年革命(法律革命ともいう)を象徴する事件。バスティーユは14世紀後半に建てられた城で,17世紀初め以来,政治犯を収容しており,旧体制の象徴とみなされていた。この事件を讃えて,1880年7月14日が国祭日と定められた。

【経緯】国民議会が憲法作成作業に入った矢先,アルトワ伯などの宮廷保守派は権力奪回のため国王に圧力をかけ,ヴュルサイユ近くに国王軍を集結させ,7月11日にネッケルを事態悪化の責任者として罷免した。12日,この報がパリに伝わると,パレ=ロワヤルでデムーランは「愛国者の聖バルテルミーの日」と訴え,王室親衛隊は民衆に合流した。すでにパリ民衆の一部は,前日から入市税取立門を焼払い始めていたが,13日,パリ市長ド=フレッセルに武器引渡しを求め,拒否されると,サン=ラザール修道院などから奪取した。同じ日,先の全国三部会選挙で選ばれていたパリの選挙人会は,ラファイエットなどの常任委員会を任命し,委員会はブルジョワ民兵の組織と食糧の確保にとりかかった。14日,800〜900人の蜂起民がバスティーユを囲み,常任委員会からテュリオ(のちの山岳派議員)が守備隊長ド=ローネーと交渉したが不成功。発砲に怒った攻囲者がなだれ込んで占拠した。ド=ローネーはパリ市庁へ連行される途中,民衆の手で殺され,ド=フレッセルも同じ運命に遭った。この事件の翌日,ルイ16世は軍隊の集結をやめ,16日にはネッケルを呼び戻し,17日,自ら市庁に赴いて3色の徽章を受け取った。

【性格】この事件は,宮廷の「陰謀」に対するパリ市民の防衛的反撃といってよいが,その際,1788〜89年の厳冬による穀物不作が民衆層の不安の底流をなしていた。だが事件は,単なる自然発生的なものであるにとどまらず,政治史的にも市制史上も大きな意味をもっている。蜂起民の大部分は,小手工業者,職人であったが,なかに,シャトル廷吏のマイヤールや王室親衛隊指揮官のユランなど中産市民がおり,ネッケルの支持者で,割引銀行の創設者ドレッセールやボスカリが,その店員を蜂起に加わらせたことも,この事件の一つの性格を示している。また事件の直前,市政を掌握した常任委員会はおそるおそるであるが,獄の明け渡しを交渉し,事態の主導権をとろうとした。その母体たる選挙人会は,フィナンシエ層,法服ブルジョワジー,高等法院弁護士などがおもなメンバーで,ブルジョワ的な性格は明瞭である。15日には,常任委員会からバイイ市長,ラファイエット国民衛兵隊総司令官が選ばれ,市制の確定にすすむ。市制樹立にあたっては,地区の直接民主主義が発揮されるが,そのなかには,市当局の権限強化の方向を強く含んでおり,推進者の社会層がやはり中産市民であったことからも,1793年のサン=キュロット運動とは区別される。要するに,この事件の担い手は,中産上層のブルジョワジーから民衆層までも含む,連合的なものであったといえよう。

【結果】これで,国王はともかく革命を受け入れ,立憲体制の素地ができた。国民議会の憲法委員会では,この事件を契機に,憲法の前に人権宣言を,というシエイエスなどの主張が強まり,その草案審議にすすんだ。ただし,国王が封建的特権の廃止や人権宣言を承認して1789年革命の成果を認めるには,なお10月5日の事件を待たねばならない。

〔参考文献〕G. ルフェーヴル著,高橋幸八郎監訳『1789年―フランス革命序論』1975,岩波書店

G. リューデ著,前川貞次郎他訳『フランス革命と群衆』改訂版,1983,ミネルヴァ書房

01