●馬術 ばじゅつ
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乗馬の技術を馬術といい,馬術の試技に対し,評価を競う競技を馬術競技という。馬場馬術,障害乗越,総合馬術の3種目があり,オリンピックの競技種目になっている。【馬術競技】[1]馬場馬術 調教の程度が審査の対象である。平坦で水平な長さ60m・幅20mの芝または砂状平面の馬場で,一定の運動課目を乗りこなす競技である。常歩(なみあし),速歩(はやあし),駈歩(かけあし)の自然走法や,足を高くあげ調子をとって歩くパサージュ,前進しない足踏みのピアッフェ,ななめ横に歩く二蹄跡運動などの競技を駆使することで,規定のコースを円形,波形,転回,後退,停止,発進をとりまぜ演技する。演技は,各種走法技術の巧拙はもとより,人馬一体となった演舞的な芸術性が問われる。[2]障害飛越 適切な踏切りによる障害物の飛越が審査の対象である。最大限1,500mのコースに,塀・植木・水濠など最小限12個の障害物を設け,飛び越す競技。コースを走破した時間が基準となっており,スタート線からゴール線まで並べられた大小・高低各種の障害物を番号順に,定められた平均速度で飛び越さなければならない。馬が障害物(れんがなど)を落下させたり,飛越の拒否や失敗,騎手に不従順だったりした場合は減点される。騎手の落馬や馬が3回障害を拒否した場合,制限時間超過や場外逸走の場合は失格である。障害飛越種目には,別に6段飛越・単一飛越などがある。[3]総合馬術 馬場馬術と飛越馬術をミックスした馬術といえる。第1日目には馬場馬術競技で調教が審査の対象となり,第2日目は耐久競技で持久力が審査の対象となり,第3日目は障害飛越競技で飛越技術(余力)が審査の対象となる。この3種目が3日間にわたって審査されるので,3日競技ともいわれる。最も重視されるのは,第2日目の耐久競技である。約32kmのコースを5区間に分け,2時間程度で走破する競技だが,人馬ともに体力・気力を消耗するすさまじい競技となっている。コースの5区間とは,野外不整地,障害競馬場,道路,小径,平地であるが,なかでも「野外不整地区間」の7kmは山あり谷ありの難関で,30余の障害物も設けられている。競技中の3日間は,もちろん人馬ともに同一でなければならない。
【歴史】乗馬の風習はもちろん,騎馬民族の生活の姿として始まったのであろう。とすれば,ユーラシア大陸の草原あるいは小アジアでは,紀元前2000年ごろから乗馬が見られたはずである。前1500年ごろ,すでに馬の調教がなされたことが記録に残されており,前400年のギリシアでは,ソクラテスの弟子クセノフォンが世界最初の馬術書を書いている。ギリシアではすでに前7世紀半ばの古代オリンピックにおいて,馬術が競技種目になっていたのである。すなわち,前680年の第25回古代オリンピックで,4頭立ての戦車競技が行われたのだった。スポーツとしての馬術の起源といえよう。古代ローマでも同様の競技として発達し,また中世の騎士社会では,実戦に騎士道の教養に馬術は必須の武芸とされた。近代馬術がおこったのは,14〜15世紀ルネッサンス期のイタリアだった。その後16世紀半ばに,ピニアテリによって,ナポリに馬術学校が創設されたが,これ以後,フランスを中心とするヨーロッパ各地に馬術の普及が始まった。日本でも古くから馬は飼育されていたが,記録に馬が顕著に登場するようになるのは,大化の改新(645)をへた天智・天武天皇時代になってからである。律令制とともに,大陸中国の騎乗法が導入されたのであろう。平安期に儀式的馬術が行われていたが,鎌倉期になって,馬術は武芸として著しい進歩を遂げ,流鏑馬・笠懸は神事とも関連している。室町期には馬術の組織化が始まり,小笠原流などの流派を生んだ。近代馬術の導入は明治以降で,オリンピック初出場は1928年(昭和3)のアムステルダム大会。1932年ロサンゼルス大会の大障害飛越で西竹一が優勝している。