●白鹿洞書院 はくろくどうしょいん
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応天,石鼓(あるいは嵩陽),岳麓とともに4大書院に数えられる。江西省の廬山の東南のふもとにあった。唐の李渤の創始になる。彼が白鹿を飼い,またその地形が丘陵に囲まれ洞のようであったため,白鹿洞の名がある。唐末に私塾として栄え,南唐では廬山国学として官立化される。宋初は再び私塾として名声を博したが,官立学校の整備と共に衰える。南宋になり,南康軍の知事となった朱熹は,役所のあった星子に近いこの書院を復興,書院教育の理念を簡潔に記した「白鹿洞書院掲示」を著す。なお彼は,論敵であった陸九淵にここで『論語』の一章を講演させている。以後この書院の名は朱熹の名声の高揚と共にたかまる。明では王守仁(陽明)もここに門人たちをつどわせたことがあり,中国の書院の筆頭に数えられた。