●幕藩体制 ばくはんたいせい
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【はじめに】近世の統一王権として江戸幕府とその支配体制下にありながら,多少独立の領国藩とを統治機関とする政治体制をさす名称で,その名称は戦後にいたって伊東多三郎『幕藩体制』(アテネ新書)あたりより用いられている。幕藩制領主が直接生産者である本百姓から,米を主とする現物年貢を直接搾取する石高制という社会的関係から成り立っている。この特質はすでに戦国時代にめばえ,織田信長・豊臣秀吉が全国統一過程で城下町の建設,楽市・楽座制,太閤検地・刀狩などの兵農・商農分離の諸政策によってしだいに形成されていく。徳川家康が関ケ原の戦いで反対勢力を破り,江戸幕府を開くにいたって,将軍は広大な直轄領を支配するとともに大名の領主権を抑え,大名統制権を掌握していく。これを幕藩体制という。家康は一般家臣団の俸禄制の樹立,本百姓を中心とする村落制度の成立,さらに寛永年間(1624〜43)において老中・若年寄などを制定し,鎖国体制の完成によって朱印船貿易を廃止し南方発展をやめている。その上に参勤交代制を定め,日光東照大権現を成立させて,ゆるぎない支配体制を確立した。【幕藩体制の実態】将軍は源頼朝以来の征夷大将軍の称号をもち,全国2,800万石の4分の1に近い700万石に及ぶ巨大な領地(天領)と軍事力によって実質的に政治的最高権力者となり,公家・社寺にはもちろんのこと,大名・旗本に対しては一方的に改易,減封,加増などの権を行使し,武家諸法度,旗本法度,禁中並公家諸法度などの法令により,全国を支配し,領主権・知行権などを制限した。江戸城をつくり,その他全国の主要鉱山(佐渡・生野・伊豆),主要都市(駿府・甲府・大坂・京都・長崎・堺ほか)を直轄下におき,経済力では全国の半ばを掌握し,さらに金銀銭の幕府貨幣の流通と鎖国政策,大坂を中心とする全国市場を掌握することによって,国内における大名経済の発展を阻止している。京都,長崎の豪商を御用商人または顧問として,その上で商業貿易を盛んに行い,幕府が巨利をもうけ大名には貿易の利を得させないようにつとめた。その上で村落社会の自然経済を維持し,村落共同体の崩壊を阻止した。社会秩序と体制の完成には地域的に農村構造の発達の差を利用したが,寛文(1661〜72)のころに完成させた。17世紀ごろ定められた幕臣の軍役人数の総計は約6万人,御家人1万7,000人,幕府直属の総兵力は8万人をこえ,30家か40家の大名の連合軍を制圧する能力をもっていた。そして家康は幕府創業以来の大名をとりつぶし,所替のような領地の再配分を通じて,大名は幕府より知行を与えられることとなった。相続者は知行目録を幕府に提出し,その相続を改めて将軍から承認を受けねばならなかった。大名は知行を与えられた代償として,将軍に忠節を尽し,参勤・軍役・助役その他の義務を果たし,武家諸法度そのほか幕府の法令に従わねばならなかった。大名のうち,関ケ原以前より徳川家に臣属したものを譜代といい,それ以後臣属したものを外様といった。所替えによって外様を外へ,譜代を関東・近畿・東海・東山に配し,全国の要所要所に徳川一門(親藩)を置いた。幕府は親疎,大・小大名を巧みに配し,相互牽制をはかった。譜代は外様大名にくらべて知行高は少なかったが,役職につくことができた。豊臣氏を滅したのち,幕府は1615年(元和1),一国一城令を出し,各大名の本城をのこし,他をことごとく破却させるなど,大名統制を強化した。
【藩国家】藩は小国家概念で幕府の藩屏を意識するものであった。とくに親藩・譜代藩はその意識がつよい。藩には「国」「国々」「諸国」「国郡」「国家」「自国」「他国」「隣国」「何国」「在国」「国人」「国大名」「国主」などの多数の関連語がある。上記における「国」は国郡制の国か「知行国」「守護分国」のようなものか,「領国」の国かなど,概念そのものの分析が必要である。また「国大名」は「国持大名」のごとき格をあらわす。しかし藩家臣団は「家中」,執政は「家老」,藩法は「家法」といって家とかかわっている。このようにみてくると名称成立はその背景の検討をぬきにして考えることはできない。国主(国持)とあるのなら,準国主・城元・城主格・無城は,大名であっても「国主」ではないことになる。さて,国主=大名はいかなる意識をもっていたのか。1657年(明暦3)の文書に,岡山藩主池田光政の郡奉行に与えた訓戒は〈上様ノ御本意御願ハ何モ無之,一天下之民一人モ飢害候人無之,国富栄侯称之トノ御願之外ハ無他事侯。然共御一人ニテハ不成故ニ国々ヲ御預ケ,又ハ小給人モ共通ニ候(後略)〉とのべているものがある。これをみてもわかるように,藩主の願いは,「飢渇の民なからしむること」であり,それが仁政の最大の目標であった。池田光政は「我等は当分の国主」にすぎない。田畑とくに公田は私の借物,公儀のものであるから,公儀を軽しめて,国民の魔害となってはいけない。そのためには,仁政を施し,百姓をとり倒すことのないものとし,上様からあずかっている一国の人民を安んずるようにしなければならない,という。彼は民に対する不仁の国主とは罪死に当るといい,国主の政治責任を強烈に意識する人であった。
【将軍公儀権力の確立】秀吉政権同様「神国」意識が利用され,国家目標として「仁義の道」(仁政)が繰り返され,征夷大将軍補佐をもって正統の公儀権力として確立している。公儀としての国家権力は小農からの地代収取,農耕者に対する経済外的強制によって成り立つ。そのためには個別領主の百姓に対する私的恣意支配を否定し,奉行所が公儀意識を代弁して,近世本百姓体制そのものの公儀性格を明確にしなくてはならぬ。家康は武家権門として征夷大将軍と源氏長者の地位につき,死後は東照大権現となった。神号も幕府が勝手に決めてさえおり,何でも幕府の意図しだいとなっている。そのはじめとして1606年(慶長11),徳川家康の上洛があり,武家の官位は幕府の推挙によって決められるようになった。それがやがて無定員となったがのちに禁中並公家諸法度となり,格別なとりはからいで決められることとなった。かくして近世国家秩序−公儀−幕藩体制的位階制への道がきりひらかれるもととなったのである。3代将軍家光は1623年(元和9)7月,将軍になると直ちに朝廷に働きかけ,寛永と改元させ,4代将軍家綱も慶安から承応へとかえ,代替り改元をしている。将軍は国王の王権そのものまで実質的には掌握していたとまでいっても過言ではあるまい。1623年,3代将軍家光の就任,そのとき征夷大将軍内大臣右近衛大将,淳和・奨学両院別当,源氏長者徳川家光の肩書は朝廷より独立したものであった。1626年(寛永3)の後水尾の二条城行幸のときは,公家当方之外の徳川家光が年長者後水尾を出迎え,大御所秀忠は二条城で待っている。1627年,紫衣事件がおき,法度を政治の原則とした。徳川家光は西国への権力進出をはかり,加藤安広改易を機に譜代大名の西国進出,駿河大納言忠長処分で宗家の権力強化を企てている。1635年(寛永12)には元和の武家諸法度をかえ,参勤交代を明記し,将軍を頂点とする公儀権力=奉行所の制度化をはかっている。近世国家秩序は改易転封国替によって大名を鉢植え化により貫徹した。国替転封した大名には「私」「私欲」「ひいき」を否定して「御法度」「御用」「御為」を強調し,幕府をさす「公儀」法度によって秩序づけを考えている。また内面支配のため,東照宮勧請によって上様へ奉公を求めている。とくに播磨以西の備前岡山藩においては,武家諸法度とキリシタン改めによって家臣団秩序確立,領内仕置のテコとしている。
〔参考文献〕中村吉治『幕藩体制論』1972,山川出版社
安良城盛昭『幕藩体制社会の成立と構造』1961,御茶の水書房
芳賀登『藩国家の成立と崩壊―地域概念の歴史的変遷』筑波大学
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