●白居易 はくきょい
アジア 中華人民共和国 AD772 唐
772〜846 唐代の詩人。韓愈とともに,中唐を代表する文学者。鄭州(河南省新鄭県)で生まれたが,戸籍上は太原(山西省)の人であった。白居易の遠い祖先は,中央アジアの異民族系であったらしく,「白」姓は胡姓であるとしてさげすまれることがあったことを,白居易自ら述べている。字は楽天。29歳のときに進士に合格したが,それは白一族において最初の進士合格者であった。翌年,試判抜萃科という高級試験に合格して,校書郎に任命された。34歳のとき,校書郎をやめて,親友の元シン※注1※(微之,779〜831)とともに,さらにもう一つ上の高級試験に受験すべく受験勉強にいそしむ。このときから以降,元シン※注1※は白居易の無二の親友となった。35歳,望みどおりその高級試験に合格し,チュウシツ※注2※県尉に任命された。長安(陝西省)の西の地であるが,そのとき「長恨歌」を発表して,にわかに有名詩人となった。その後,いくつかの職をへて,37歳のときに左拾遣に任ぜられ,天子側近の諫官となったが,そのときから以降,杜甫の社会詩人としての活動を思い浮かべて,杜甫にあやかる社会詩の必要を感じ,「新楽府」50首,「秦中吟」10首をつくって,政治・社会への批判をすることに詩人の使命があることを力説した。白居易が53歳のとき,親友の元シン※注1※が白居易のために『白氏長慶集』50巻(『白氏文集』の前集)を編集したが,そのとき元シン※注1※は,白居易の意志を尊重して,「諷諭」「閑適」「感傷」の3部に分けて,白居易の詩を整理したが,「新楽府」「秦中吟」を「諷諭」のなかに収め,そこに白詩の生命があることを示した。「長恨歌」や「琵琶行」は,「感傷」の部に収められている。しかしながら日本においては,「諷論」の詩はあまり好まれず,もっぱら「閑適」や「感傷」に属する作品が愛好された。44歳から以降,白居易は地方官に出され,56歳まで南方中国の地方官の時代が続く。56歳,都に戻って秘書監,翌年刑部侍郎,58歳には太子賓客として中央に戻るが,白居易の生涯は波瀾がつきまとった。安禄山の乱後の政府立て直しが,中唐政府の使命であったが,反面,派閥の抗争が激しくなり,天子もしきりに更迭され,白居易自身,代宗のときに校書郎になったことから数えたとき,最後の官である刑部尚書(71歳)にいたるまで,実に8代の天子に仕えるということになった。こうして,若いころ「諷諭詩」に情熱を燃やした白居易も,時代の変動にもまれるままに,しだいに政治への夢を失い,61歳のときには洛陽の近くの香山寺の僧と親しくして,自ら香山居士と号し,仏教の世界に傾斜するようになった。こうして晩年の白居易は,民間歌謡にひかれてそのかえうたをつくったり,かつての諷諭詩人としての立場を離れて,民間文芸がもつ特性を自らの作詩の題材にするようにもなってきた。71歳,刑部尚書をもって退官し,74歳,自らの手で作品を整理して『白氏文集』75巻をまとめ,翌75歳のときに没した。死後,尚書左僕射を追贈され,遺体は洛陽の近くの竜門に葬られた。
〔参考文献〕高木正一『白居易』中国詩人選集,1983,岩波書店
平岡武夫『白居易』中国詩文選,1977,筑摩書房
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