●履物 はきもの
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アシ(脚・足)につけるものの総称。足の下につけて立ち仕事の能率を高めたり,足に着けて前へ歩くために用いる。アシの保護や整容,労働などのために履く。足の甲を履う閉塞性履物と,足の甲を露出する開放性履物とがある。前者は,藁沓・和沓・洋靴・足袋・地下足袋・襪(しとうず)・甲掛など。後者は,下駄・雪下駄・田下駄・草履・草鞋・下駄スケート・缶下駄など,前緒や横緒・鼻緒のあるものである。脚の保護に用いるものには脛巾(はばき)・脚絆・足桶・踏俵などがある。雪中歩行用としてカンジキ,雪中滑走用としてスキー,氷上滑走用としてスケートがある。閉塞性履物は北方狩猟民族の皮靴を起源に,ヨーロッパやアメリカの肉食や粉食文明地帯で,Foot-wear(足の衣服)として用いられる。一方,開放性履物は,南方の稲作民族のサンダルを起源としている。西アフリカ,東インド,東南アジア,中国南部の少数民族・日本などの,草食や米食の文明地帯に多く,Foot-gear(足の道具)として用いられる。日本の履物は下駄・草履・草鞋など,鼻緒式履物である。藁沓や和沓には,甲の内に指またで挟む鼻緒(前緒)があり,足桶,踏俵など脚を保護する履物の底には,下駄や草履を取りつけて指またに挟み持ち上げて用いる。また和沓や足袋,地下足袋は,外見は閉塞性履物だが,親指と次指を分けて履くように作られている。明治以後に,欧米から伝わった洋靴を除くと,日本在来の履物は,指またに挟んだり,指またを分ける履き方である。日本人が,南方稲作民族の習慣を,近年まで保っていた事が履物で知れるのである。【履物の歴史】縄文時代の終りには,雪中での狩りに皮沓とカンジキが用いられたものと思われる。弥生時代には,中国南部地方から稲作技術が伝わり,田下駄が,湿田での穂刈りや肥料としての残り藁の踏みこみなどに用いられた。古墳時代には,大陸より下駄が伝わり地方豪族が履いていた。奈良時代になると,中国から下駄や各種の沓(くつ)が伝わり,多く貴族が用いた。平安時代には,大陸伝来の草鞋(わらくつ)が今日のような鼻緒式の草蛙に作り変えられ,さらにこれを簡略にした草履が作られて,庶民の労働や歩行に用いられた。鎌倉時代には,皮沓や襪(指股のない靴下)から,指またの分かれた革足袋が創られる。また草鞋と草履から戦闘用の半物草履も創られている。これを室町時代には足半(あしなか)草履といい,武士が用いた。江戸時代中期になると,和ばさみ生産が盛んとなる。良い鋼が作られるようになり工具が進歩したので,それまでの足駄(差し歯高下駄)と駒下駄(連歯低下駄)の中間型である,晴雨兼用の日和下駄(関西の利休下駄に同じ)が創られるようになった。下駄には桐を多く用いるようになった。江戸時代末期には各種の生産が発展し,農山村・漁村用の浜下駄,海苔下駄,足桶,鉄カンジキなどが出現する。足袋も革足袋から布足袋と代わり,鯨のヒゲで作ったコハゼ足袋も出現してくる。開国とともに,欧米人により洋靴が伝わり,明治時代には洋靴を国産するまでになった。昭和10年代の第二次大戦により徴兵で軍靴を履き,敗戦後の欧風化で洋靴を皆が履くようになった。1918年(大正7)には地下足袋が創作され,同時代にスケートが伝わり,この影響で下駄スケートも出現した。弥生時代以来,1945年(昭和20)までのおよそ2,000年間,日本人は鼻緒式の履物を用いてきた。しかし敗戦後のおよそ40年間で,西欧風の靴がとって代わり,それにより水虫やへん平足など,特有の病気が問題となってきた。昭和30年以後は,自動車など乗り物の多用化によって足の運動量が減って,次第にアシ(足と脚)が退化しつつあるという。履物の名称は,関ケ原を境に関東と関西で違う。関東の駒下駄は関西で真(まさ)下駄,足駄は高下駄である。関東の雪駄(せった)は関西で席駄(せきだ)。ぽっくり下駄はこっぽり下駄という。新しいものでは,関東のジカ足袋は関西でデカ足袋。下駄の鼻緒は関東では短かく,関西では長い。
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