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●パキスタン

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 イギリス支配のインドからイスラーム教徒の多数を占める地域をもとに1947年に分離独立した。1971年この東パキスタンがさらに分離しバングラディシュを樹立,旧西パキスタンがパキスタンをなす。

【国土と国民】面積は80万平方kmで,南アジア(インド亜大陸)の西北隅に位置し,西はアフガニスタン・イランに接し,東はインドと国境を接している。インドとの係争地カシミールの休戦ライン西側がパキスタン側である。また北部の先端で中国と国境を接して,1978年,カラコルム=ハイウェイが開通している。このように中東・中央アジアと南アジアとの接点に位置している。国土の中央部を南北にインダス川が流れ,北部山岳の流れがパンジャーブ平原を5河となって潤し,スィンド地方で1本に合流してアラビア海に注いでいる。人口は8,378万人(1981)で,ほとんどイスラーム教徒。イスラームが国民統合の原理とされている。しかし実際の民族構成では多民族国家である。なかでもパンジャーブ語を話すパンジャーブ人が数も多く,優勢である。つぎにスィンディー語を話すスィンド人,パシュトゥー語を話すパターン人,バルーチ語を話すバルーチ人の順である。これら地方語を超えて,国語のウルドゥー語が用いられ,学校で教えられる。

【国土の歴史】国土には中東,中央アジア,南アジアの諸文明の交錯地となった。インダス文明のモヘンジョ=ダロハラッパーの高度な都市文明が栄えたのち,北西から騎馬民族のアーリア人が到来し,先住民を征服しながら,さらに東方のガンジス平原に前進を続けた。インダス流域は古代ペルシア帝国と交渉をもっており,これを打ち破ったアレクサンドロス大王が前326年,侵入した。ギリシア人はこの地で綿花と砂糖キビを初めて知り,西方との貿易が盛んになった。モウリア朝の広大な支配のもとでは,タキシラが州都であった。クシャーナ朝はペシャーワルを都として中央アジアを含んで支配し,カニシカ王のとき仏像が礼拝されるようになった。このあとグプタ朝がおこり,仏教は衰退した。7世紀にイスラームがアラビアに生まれると,712年,イスラーム軍がムハンマド=ブン=(アル=)カースィムに率いられて,海路スィンドを征服し,南アジアのイスラーム化の第一歩になった。陸路からは11世紀にガズナ朝のマハムード王がしばしば南アジアに遠征し,本格的には13世紀にデリーに都した奴隷王朝がムスリムの支配権力を確立した。デリーの一連のサルタナトののち,ムガル朝のもとでラホールが繁栄した。ムガル朝後期にはシク教徒の勢力が北部に確立された。イギリス東インド会社はスィンドに続いてパンジャーブを併合した。1857年,大反乱以後,イギリスの植民地下におかれた。

【パキスタン成立まで】北インドのイスラーム教徒はこの大反乱でとくに大きな打撃をうけた。イギリス支配下でムスリム同胞の不利な条件を改善するために積極的にイギリス支配に接近した近代の指導者がサィイド=アフマド=カーンであった。イスラーム教徒の弟子のための近代高等教育機関アリーガル=カレジを設立し,社会改革の必要を説いた。このカレジはイスラーム教徒上層の支持を集め,彼らのあいだに同胞意識(ムスリム=コミュナリズム)を目覚めさせた。政治的にこの同胞意識をもとにした組織がムスリム連盟で,1906年,創立大会を東ベンガルのダッカで開き,1907年,第1回大会を開催した。1909年,インド参事会法政正では,イスラーム教徒に議席が別に定められて分離選挙制が導入された。他方インドのイスラーム教徒は列強によるオスマン帝国解体に同情し,1919年,キラーファト運動に突入し,全インド的なガンディーの民族運動に合流した。ムスリム連盟が再編強化されたのは1937年州議会選挙で完敗して危機感を強めてからであった。1940年,ラホール大会でインドにイスラーム教徒の独立国家(複数)をめざす決議(パキスタン決議)を採択した。第二次世界大戦下にイギリスは戦後にインドへ独立を与える計画を示し,国民会議派とムスリム連盟と交渉の末,連盟のパキスタン要求がついに認められた。

【国家の樹立と発展】1947年8月14日,パキスタンが正式に独立し,ジンナーが総督に就いた。インドからイスラーム教徒難民が多数流入し,カシミールをめぐるインドとの軍事的対立,食糧不足,インフレに見舞われ大きな困難に直面した。ジンナーとアリー=カーンのような政治指導者を相次いで失って,連盟の結束は崩れた。1956年制定の憲法は政争のなかで有効に働かなかった。1958年,政争に終止符をうつためアイユーブ=ハーン戒厳司令官が大統領となり,外国借款で開発を進めたが,1969年退陣し,ヤフヤー戒厳司令官に全権を移譲した。1970年末,総選挙で,自治を要求して東パキスタンが勝利し,1971年,内戦の結果,バングラディシュが分離した。1971年末,人民党のブットーが大統領となって政権担当。1977年,選挙をめぐって野党の反対をうけ,代わってズィアーウル=ハクの軍政が登場し,民政移管が引き延ばされている。

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