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●秤 はかり

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 秤は度量衡のうち衡に属し,物の軽重をはかる道具をいう。大宝令に「權衡は二十四銖を両と為し,三両を大両一両と為し,十六両を斤と為す」とあり,これは唐制にならって定められたもので,銖・両・斤が単位として使用された。また銀や銅などをはかる常用の秤は大を使用,薬などをはかるには小を用いた。その後,大きな変化はなかったが,室町時代から商業活動の活発化に応じて各地で領国内通用の秤が普及した。豊臣秀吉は特定の秤職人に「天下一」の称号を与えて製品の精度の維持・奨励にあたった。また,甲州の武田氏は領内の黒川金山を初めとして領内に鉱山が多く,それらを原料として秤量貨幣(重さを計って支払う貨幣)が広く流通していたので,秤量するための秤を統制して領国内における商業活動を掌握していた。1574年(天正2)閏11月,武田勝頼は,吉川守随,鈴木清三郎,鈴木与次郎,長坂善七郎の4人に秤製作の独占権を与え諸役を赦免して保護するなど,秤の統制を通して領国内の貨幣経済を掌握しようとしていた。1576年(天正4)2月23日には,再度秤所認許と国役赦免が,この4人に与えられたが,1582年(天正10)に武田氏は織田信長と天目山に戦って亡ぼされた。この年10月末には,甲信2カ国は徳川家康の手に入った。11月26日,家康は甲州の秤細工人守随彦太郎(守随は吉川家初代の名前であるが,このときから苗字に用いた)に甲州一国一人の「甲州金秤子」の特権を保証する朱印状を与えた。

 畿内には,古くから秤細工人がいたが,のちに西国の秤の独占権をもった神(じん)氏は,同家の記録によると,天正のころ(1573〜91)伊勢の白子に住んでいたが,京都に移住し器物の細工を業としていたが,のちに秤の製作を始め,大いに評判を得たという。「三貨図量」に「神ノ家ハ,本国ハ勢州ニテ京室町家ニ仕官シ,秤座免許セラレ,ソレヨリ代々京住也」とある。京都室町家(四辻家)に仕えて秤座を経営し,四辻家との結びつきでもあろうか,1611年(慶長16)に「豊後掾」に任ぜられている。また『三貨図彙』には「慶長年二大権現二条ノ城ヘ登御ノ砌リ,先祖豊後掾召シ出サレ御目見ノ上,相イカワラズ京秤座免許ヲコウムリ,御用仰セツケラル」とあって禁制ばかりでなく,初代善四郎は幕府の御用をうけて特権化していった。

 さて,一方の甲州一国の秤の独占権を得ていた守随家は,1583年(天正11)10月5日に家康から三遠駿甲信5カ国の秤の独占権を与えられた。1590年(天正18)7月,小田原落城ののち,家康は新たに関東6カ国の地へ移り,8月1日江戸に入った。この年縁をたよって江戸に移住する者が相ついだ。そのころ,甲府にいた守随信義も江戸に移住,1614年(慶長19)3月10日,関東中における守随秤独占的通用を認可された。 權衡の制は,江戸初期には秤量貨幣が通用していた関係もあって経済的支配の根幹をなすものであったから,江戸幕府は秤の製作・販売を統制する必要があった。

【秤座の成立】1653年(承応2)閏6月28日,幕府は,日本66カ国のうち,東33カ国は守随家の秤,西33カ国は京都の神家の秤とそれぞれ独占的製作・販売を定め,東の江戸守随秤座,西の京都神秤座と東西分掌による權衡の統一を定めた。この東西の秤座の独占は,1875年(明治8)8月,「度量衡取締条例」公布まで続いた。秤座は秤の製作・販売のみでなく修理をも独占し,何人といえどもこれを行うことは許されなかった。また,不正・不良・偽の秤を没収し,摘発する権限をもっていた。この秤の検定のため「秤改め」を随時に実施して衡制の維持にあたってきた。江戸・京両座の桿の秤目は,後藤家分銅座で製作する,いわゆる「後藤極め」の分銅によって盛出される定めになっていた。なお,江戸秤座は,守随家によって経営され,守随氏は,幕府細工所に所属する特権商人であり,京秤座の神氏は京都町奉行支配下の特権商人であった。彼らの販売する秤は,幕府の官物として頒布するというたてまえであったから,販売といわないで,「お下げ渡し」といった。

【出張所・出店】不正・不良の秤や偽秤の発生を押えて衡制をきびしく維持するためには,秤の入手,修理が容易であることが必要である。このため守随家では出張所を東33カ国に配置し,その代表者を名代役(みょうだいやく)と呼び,その地では「甲府秤座」,「名古屋秤座」と地名をとって呼ばれたが,本座からは出張所と呼び,名代役は,守随家を「旦那」様と呼んでいた。江戸秤座の出張所は次のとおりである。

 これに対し京秤座神家では,出店と呼び,名代役を西33カ国に配していた。なお両座とも出先機関は本座から部分品を購入し加工販売と修理を行った。神家の出店は次の通りである。

【秤の種類と名称】銀秤・千木(ちぎ)秤・皿秤の三つに大別できる。銀秤は皿で重さを計量し,ごく少量のものをはかるのに使用され,「れいてんぐ」,「中直(なかため)秤」,「小直(こため)秤」,「厘直秤」,「小秤」,「角二重秤」,「角入子長二重秤」の7種があり,「厘直秤」の上目(うわめ)が1匁2分1厘で最も低く「れいてんぐ」の向目(むこうめ)160匁で最も高い。皿秤は「綿秤」,「小皿秤」,「中皿秤」,「大皿秤」,「大引通し秤」,「大々引通し秤(衡2尺3寸・錘150匁)」,「大々々引通し秤(衡2尺5寸・錘200匁)の7種があり,小皿秤の上目50匁から「大々引通し秤」の向目1貫600匁までが,はかられる。千木秤は,皿でなく鉤で物を吊って計る秤で,最も重い物を計量するに用いた。その種類は「2貫目千木秤」,「3貫目千木秤」,「5貫目千木秤」,「10貫目千木秤」,「15貫目千木秤」,「20貫目千木秤」,「30貫目千木秤」の7種があり200目から32貫目まではかることができる。以上にあげた22種は1692年(元禄5)の江戸秤座の書上げであるが,幕府が藩からの註文によっては,特殊用途の秤もつくっているから固定したものではない。また京秤座も,ほぼ同様である。なお,両座とも幕末まで技術的には,ほとんど進歩がない。このほか幕府内に納めている御用秤があり,これは他に販売しなかったようである。次の10種がそれである。[1]御伽羅(きやら)掛秤(御本丸御納戸御用)香木をはかる秤,[2]御人参掛秤(御本丸御小納戸御薬方御用)薬用人参をはかる,[3]御香具秤,香具をはかる,[4]御茶掛大皿秤(南丸御数寄屋),茶の目方をはかる,[5]御鉢秤(御小納戸奥向・御納戸表御膳所御用),食物調理に用いられた秤と思われる,[6]御餞秤(同),[7]御縮秤(同),[8]御時服秤(同),[9]御薬秤,[10]御煎秤,以上のうち御香具秤と御鉢秤は御三家御三卿のほかは御用達しない定めであった。江戸秤座では御用秤は江戸城内に納め,京秤座の場合は所司代・京都町奉行所・大坂城代堺奉行所・奈良奉行所・宮中に納入していた。秤の棹は,蘇枋(すおう)・赤樫・黒柿が木材として使用されるほか,銀秤には鹿角・象牙が使われることもあった。秤の各部分の名称は図示の通りである。

【秤改め】衡器の精度を保持するためには,秤の検定を厳格に実施し全国的規模で不時の検査を行わなければならない。そうすることによって封建経済の根幹を維持し,不良秤の横行による幕政の混乱を避ける必要があった。このため秤改めが随時,両座によって行われた。守随家の記録中に秤改めに出たのは,1655年〜57(明暦年中)ごろからのことで,明暦元年に秤改めの定書とでもいうべき触状が江戸の町奉行から出されている。それによると,古秤の隠匿の禁止,古秤を所持している者は,町内の月行司に届け,月行司の者は守随方に持参して改めをうけることを通達している。つまり守随家は秤改めの任務をもっていたのである。これ以来,江戸から始まって東33カ国に秤改めを実施していった。京秤座の神家も1654年(承応3),京都,1661年(寛文1),京都・堺,寛文3年大阪,同5年紀州,同7年堺・伏見と都市を中心に重点的に改めを行い,したがいに地方に及んでいった。この秤改めはどのように行われたか,手続きと改め方についてみよう。まず座方から幕府に秤改め実施の願書を出し,許可を得て行った。江戸の秤改めのさいには,守随氏の名代役の者が,あらかじめ町ごとに町の月行司役のところに集めた町内の秤を検査した。不良の秤は秤座の役宅へ秤持主と家主同道で秤を持参し,不良秤は没収した。このさい隠して改めをうけない秤のある場合も考慮して家別の改めも実施している。のちには,国ごとに改め行い,村の場合には,庄屋に村中の秤を集めさせて,臨時に設けた秤改役所で改め,不良秤は直ちに折損廃棄した。秤改めのさい秤座役人は御伝馬証文をもって人馬を利用した。藩領の改めのさいには守随家の場合は江戸の藩屋敷に改めの月日と場所を届出ており,神家の場合にも事前に藩役所に届出ているが,幕権をもって改めを行っているため拒絶されることはなかった。両家とも秤改めに従事する者はすべて帯刀が許されていた。秤改め役として参加する人員は,ときによって異なるが,1744年(延享1),神家による明石・姫路方面改めの場合,改方2名・秤糸付1名・秤糸付細工方1名・千木緒付細工方1名・極印1名・筆役方1名・小使1名・下男2名の10名であるが,現地で2〜3人の下働きの者を雇っているので10〜15人程度の者たちであった。この秤改めのさい秤1挺につき幕末ごろの場合,銀一分の「御改極印料」を納入し,不良秤は没収されるが,修理すれば使用できる秤は修理の上修理費を支払うことになっていた。なお修理も座方の独占で座以外の者の修補は処罰された。秤改めは各国ともほぼ7,8年から20年に1回行われたが,改料が高いために嫌われることが多かった。しかし座方にとっては,これが重要な収入源のため,絶えず行っていた。

【秤の取締】秤改めは,不良秤・不正秤(偽秤)の取締を実施して衡制の維持を図るものであった。違反した場合はどうであったか。まず1741年(寛保1)以前の定めでは,偽秤の製作者は引廻しの上,獄門にさらし,掛目の違いのない偽秤の製作者は中追放という掟であり,計量制度維持のため厳罰をもってあたったことが知られる。一例を上げると,1710年(宝永7),大坂の伏見尾伊右衛門が偽秤をこしらえて販売していたので,神家はこれを大坂町奉行所に訴えた。伊右衛門父子と弟子2人が召し捕られ,伊右衛門は千日寺にて獄門,伜は追放処分となった。偽秤の製作は死罪であったが,めったになかった。古道具屋が秤を買って売るという行為は違反であったが,多くは,そうした行為が違反であることを知らなかった場合が多く「急度御叱(きっとおしかり)」となることが多かった。1741年(寛保1)12月,名古屋の古道具屋が「御番屋御払」の秤を売ろうとしたことがあり,藩役人のなかでも秤は座の独占物であることを知らなかったことが知られる。神家の1782年(天明2)の「日暦」のなかに,大坂で秤の補修をしている者14人を見つけたので,神家では大坂町奉行に訴えたところ,14人の者たちが詫びに来たために願下げにして内済で決着したとある。これからみると座の判断で,告訴したり願下げなどができたようである。

【秤座の解体】欧米資本主義国家との接触に伴って,貿易の面からも欧米の計量法技術と対置,同化,比定しうるような条件の整備は緊急の問題であった。日本の度量衡制は長く生活慣習のなかに密着していただけに一挙に改正することは困難であったから座方も依然として続き,1875年(明治8)に神家は丹波国三郡の秤改めを行っている(これが秤改めの最後)。しかし,いっぽうに西洋權衡の採用を,座方の權衡とは別種という解釈のもとで1872年,東京の森谷清三郎は台秤の販売を開始した。秤はすべて棹秤のみであったから,台秤の出現は,近代衡制確立の上でも画期をなす事柄の一つであった。翌年には大坂の山本清之助・木村辰次郎が,西洋形権衡の製作販売を許可された。西洋式計量具の採用とともに,1875年8月5日,太政官達第135号で達せられた全文22カ条からなる「度量衡取締条例」によって,旧来の座は特権を失なった。明治14年には刑法が改正され,度量衝偽造・変造の場合の罪が定められた。さて,台秤の出現のほか,明治以後,牛馬掛秤・書状掛秤・バネ式の検力計や掛秤・デニール(検位衡)などさまざまな秤があらわれ,計量具の発展をみたが,これは日本の科学の進歩発展の上に大きな役割を果たした。

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