●破戒 はかい
アジア 日本 AD
島崎藤村が,1906年(明治39)3月25日,『緑蔭叢書』の第1編として,上田屋から自費出版した長編小説。日露戦争のさなか,藤村は,戦争の“悲酸”を思い知りながら,長野県北佐久郡小諸町の私塾教師・作家の二重生活から,東京に出,文学で自立することを志して執筆。函館の実業家で妻の父秦慶治と長野県北佐久郡志賀村の豪農神津猛から資金援助を受け,出版社にまかせず公刊した。小説の舞台は,北信濃の封建的色彩の濃い階層関係と差別意識のすさまじい旧城下町飯山で,校長・郡視学・町会議員などの支配の構図の強い教育界。主人公は,師範学校を卒業し,生徒に人望のある青年教師瀬川丑松。没落した士族の教員や小作農の貧しく厳しい生活に心を痛め,僧侶の乱倫や政治家の腐敗に批判の目をもつ。人権意識の欠けた教育行政のもと,それに迎合する教員が丑松の出身を詮索する眼に悩み,生まれ育った被差別部落から離れ,山村の牧場で牧夫として生きた父が,出身を隠し通せといい続けた“戒(いましめ)”を,ついに“破(やぶ)る”過程が描かれる。部落出身であることを明らかにして,社会運動に取り組む猪子蓮太郎への尊敬と恐れ,没落士族の同僚教員の娘で,下宿先の蓮華寺の養女風間志保への愛などを交錯させ,テロによる猪子の暗殺をみて,丑松が部落出身であることを告白するにいたる葛藤が書き込まれている。生徒や教師,授業参観者の前で告白し,土下座して許しを請うた丑松は,すでに飯山から追われた部落出身の大日向が,発奮して,アメリカのテキサスで具体化した農業に従事する日本村計画に,参加することとなる。
『破戒』の評価をめぐり,自己告白に中心をみるか,社会的偏見への抗議に中心をみるか,評価が分かれるが,両者を統一的にとらえる見方が注目される。しかし,丑松の土下座による告白,渡米の結末は,部落解放を放棄するものとの批判が強い。1929年(昭和4),新潮社は,『現代長篇小説全集』に,『家』とともに『破戒』を収録した。このとき,全国水平社は,『破戒』が差別性をもつと糾弾し,藤村と新潮社は,検討を重ね初版本を絶版とした。その後,藤村と全国水平社との交渉があり,1939年,改訂版が出されている。
1953年8月,筑摩書房の『現代日本文学全集』で,初版本が復元された。これに対し,部落解放全国委員会は,「『破戒』初版本復元に関する声明」(1954年4月)を寄せた。同全集が,被圧迫部落民の存在に対して,まるで無関心であったと指摘し,初版本の復元には,“周到な準備が必要”であり,真の部落解放の道に沿って,『破戒』のもつ部落民への加害性を十分留意すべきであり,1939年の改訂版発刊にも問題があったとした。
藤村は,部落民を“人種”“卑しい”“不浄な人間”と表現した。平等社会の実現を願い,差別の不当に抗議したこと,日露戦争期の地域社会の諸矛盾を,自然主義の手法で描き,このなかで悩む人間の造形に挑んだ意図が,一定の結実をみたことは,充分評価される。だが,『破戒』が,差別を根底から批判できなかったことは明らかである。もっとも藤村に『破戒』執筆の動機を与え,猪子蓮太郎とともに,瀬川丑松のモデルとみられる大江磯吉(長野県下伊那郡下殿岡村出身,教員)が,すぐれた教員にもかかわらず地域社会にいれられないで,鳥取県に脱出せざるをえなかった事実,当時の融和・解放運動が組織的になっていなかった段階が,藤村の限界を規定したことが解明されている(青木孝寿『近代部落史の研究 長野県の具体像』など)。また,『破戒』に登場する市村代議士のモデルである立川雲平は,秩父事件以降の地域自由民権運動の中核から,初期社会主義運動に理解を示す代議士となったが,長野県自由民権運動が,部落差別の克服を人権の立場からとらえ切っていなかったことも,また明らかである。『破戒』が,文学的立場から提起した課題は,その弱点を含めて,現代における歴史的課題として,いまも十分克服されていないといわなくてはならないであろう。