●墓 はか
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通例は人間や獣類の死体、遺骨などを葬った場所や施設をいう。より正確にいえば、死んだものとか死んだとみなしたものの全体もしくは一部分を、一般的な生活の場と区切りをつけて安置する場所とすることができる。しかし、墓には必ずしも死んだもの、あるいは死んだとみなしたものの遺体や遺骨などが置かれるとは限らない。また、人間やそのほかの動物ばかりでなく、植物とか器物や道具類などのために設けられた例もある。さらに、構築物あるいはそれに代わるような施設を有したり、副葬品を伴う例がふつうである。なお、死んだものに副葬品を伴わせることは、他界観や再生の観念のあることを物語っている。墓にはまた、民族・部族・氏族などの集団とか、地域や文化期による特色も認められる。
【旧石器時代】人類文化史上いつから墓を設けるようになったかは定かでない。しかし、すでに旧石器時代中期には明らかに墓がつくられている。それ以前の旧石器時代前期については、中国の北京郊外周口店第一洞窟で、頭蓋骨がそれ以外の各部の骨と離れた場所から発見され、これに関して、ある種の頭蓋崇拝がなされていた可能性を推測されているというような例はあるが、これまでに墓が設けられたという確かな証拠は知られていない。旧石器時代中期のアッシュール文化後期、あるいはこれと同じころの文化の担い手であるネアンデルタール人によっては、明らかに埋葬が行われている。H. キューンの著によって、ネアンデルタール人による埋葬の一例を示すと、フランスのコレーズ県ラ・シャペーユ=オー=サンで発見された人骨は、〈掘り窪められた穴のなかに横たわっていた。埋葬されていたのは、身長が1.60mの50歳前後の男子であった。それは西南から東北の線に位置し、仰向けに横たわっていた。彼は、右手で頭を支え、左手を伸ばしていた。死者は、あたかも棺のように下に置かれた2、3の石の上に載せられていた。頭蓋骨の下側に平らな骨が置かれており、それは保護の役をしたらしい。食糧として牛の脚の部分が一緒におかれていた。遺骨の周りには、赭土片、さらには巧みに加工されたムスティエ文化のフリント製石器があった。また、遺骨の近くには鍋の形をした炉があった。〉という。また、フランスのドルドーニュ県ル・ビューグ付近のラ・フェラシーで発見された小児骨は、屈葬体で、動物の頭蓋による浅鉢や赤色顔料などが伴出している。なお、屈葬は死者の蘇生を妨げるため、ないしは死者の霊的存在が現世に立ち戻らないようにするための行為であるという可能性が考慮されている。さらに、ドイツやスイスの山地のネアンデルタール人による洞窟遺跡において、一定の方法で配置されたアナグマの骨が発見されており、それらによってネアンデルタール人がアナグマを葬るにあたり、その霊的存在に対して一定の儀礼を行ったとみることができる。より新しく位置づけられる旧石器時代後期については、一段と入念な埋葬例が認められている。たとえば、イタリアのメントーネに近いグリマルディ小児洞には、一つの墓穴に老女と十数歳位の男子が合葬された例があり、このうち男子には全体にベンガラが撒布され、頭部に4列の海産の貝飾りが伴っており、さらに、フリント製の刃器が副葬されていた。また、老女は貝殻の腕飾りをつけていた。なお、これら2者の頭蓋骨とも、直立した石の上に置かれた板状石により支えられていた。これと同時代のもので、やはりグリマルディのバルマ・グランデといわれる洞窟に6体の人骨が発見されて、死者が四肢を曲げ、うずくまった姿勢で焼土の上に横たえられたことが認められた。それらはまた、板石で保護され、貝殻製の装飾品やシカの歯を伴っていた。同じく後期旧石器時代のシベリアのマルタの例では、小児を石炭岩の板石でつくった棺に入れて住居床下に葬り、ベンガラやマンモスの骨でつくった副葬品を伴わせている。ヨーロッパ、アジア大陸の旧石器時代に相当する時期の日本列島における墓は発見例にきわめて乏しい。これまでの報告によると、大分県清川村岩戸遺跡における例が最古で、集石下に掘り込まれた土拡面より人骨が発見されており、これに掻器が伴出している。なお、その構築は約2万年前と推定されている。さらに新しい先縄文時代末近くの文化層をもつ北海道知内町湯の里4遺跡では、窪みにベンガラ、ビーズ、琥珀製の玉が出土しており、この場が墓である可能性が考察されている。
【中石器時代】ヨーロッパの中石器時代における人々の墓は、それ以前からの要素をも受け継いでいるが、より注意深い配慮も認められる。また、この時代になって、墓が住居の外にまとめて設けられるむきが強まり、本格的な墓地形成もなされるようになった。さらに、副葬品の種類の多様化傾向も認められ、ベンガラ、さまざまな種類の石器類、貝殻、骨製小玉などの飾りがつけられた衣服や冠りもの、衣服用の骨製留針とみられるもの、鉢巻状の飾りもの、首飾り、腕輪、顔料用の皿またはランプとみなされるもの、絵具を伴う擂り皿、河原石に赤色塗料で印を描いた〈彩礫〉ほかが知られている。墓の上には石を積み上げた例のほか、シカ角を被せた例もある。この時代にはまた、貝塚中に人間の墓がつくられている。ポルトガルのムージェムの貝塚は、多数の人骨が出土しているこの時代の代表的な貝塚である。日本列島においても、ヨーロッパの中石器時代と文化内容が近い縄文時代の貝塚中に、往々にして人間の墓がつくられている。なお、日本列島のみならず、広く貝塚には人間の墓や獣類の墓がしばしば伴っている。それに加えて、貝塚中の埋葬例でも、人間や獣類の屍体は通例丁重に埋葬され、副葬品を供えられており、さらに、人間の場合屈葬体の姿勢で葬られている例が多いなどの諸点から、貝塚が人間やそのほかの諸動物の霊的存在を他界させる場であるという解釈がなされており、このような場が「物送り場」といわれている。そして、このように考える物送り場説は、かつてのアイヌ文化によって裏づけされている。かつてアイヌは、飼育していた動物を殺したり、狩猟で動物を殺したりするのに伴い、それらの霊的存在を他界へ送る儀礼を行っており、そのような儀礼を、母屋近くの〈ヌササン〉と呼ぶ祭壇を設けた戸外の一定の場所で執り行った。また、そのような〈ヌササン〉と呼ばれる祭壇の前には、霊的存在を他界に送られる諸動物の頭骨が、供え物とともに儀礼のたびに祭って置かれ、しだいに累積された。さらに、ヌササンの前には、諸動物の頭骨のみならず、使えなくなった器具や道具類ほかの不用品も置かれて、これらの霊的存在も儀礼をもって他界へと送られた。このヌササンの設けられた場所も「物送り場」と称されており、このような場は諸動物とか、不用となった器具・道具類などの墓とみなされる。アイヌはまた、死者に伴わせる副葬品を破壊したり、損傷したりしたが、それは死者の霊的存在とともに副葬品の霊的存在をも他界させるためであった。アイヌにおける以上のような宗教的観念や儀礼は、ほかの食料採集民の文化のうちにも広く類例を求めることができ、先史時代における墓の設営に伴う宗教的諸例面の理解にとって非常に参考になる。
【新石器時代】農耕とか家畜などの食料生産活動を基本とした、アジアやヨーロッパの新石器時代におけるような文化では、もはや一般に人間の墓を、日常的な生活の場である住居や集落の外側に設けている。また、新石器時代的文化によっては、中石器時代的文化による場合よりも各地で一段と規模の大きい墓がつくられており、村落共同体レベルの労力によって構築されたと考えられるような例もある。なお、少人数では構築できないような大きさの墓については、祖先崇拝の盛行を物語るものといえよう。ヨーロッパやアジアで、新石器時代後半から鉄器時代初期にかけて構築された巨石文化の所産である巨石記念物は、墳墓の例が多い。巨石記念物は、〈巨石建造物〉または〈巨石遺構〉とも称されており、ドルメンとか〈支石墓〉と呼ばれるもの、メンヒルとか〈立石〉とされるもの、アリニュマンすなわち〈列石〉、ストーン=サークル、ストーン=ヘンジ、クロムレック、〈環状列石〉もしくは〈環状石籬〉などと称されるグループのものなどに分類されている。このうちドルメンは、語源を dol すなわち机と、men すなわち石によっており、その形態は大きな偏平な天井石が支石の上に置かれてテーブル状を呈している。このような形態の遺構は、北フランス、北ドイツ、デンマーク、スカンジナヴィア半島南部、アイルランド、イングランド、スペイン、ポルトガルなどのヨーロッパ各地に及んでおり、さらに、北アフリカ、西アジア、インド、東南アジアのいくらかの地方、中国東北部、朝鮮半島、日本の北九州などにも知られている。なお、中国東北部のものについては〈石棚〉、同様の遺構を有する朝鮮半島や日本における墓が〈支石墓〉と呼ばれている。そして、ドルメンは一般に墓石と考えられており、ドルメンを伴う墓は3大別されている。そのうち一つは、〈北方式支石墓〉とか〈卓子形支石墓〉と呼ばれる類のもので、1個の大きな天井石とそれを支える3〜4個の支石とによって室が設けられているものである。もう一つの〈基盤形支石墓〉とか〈南方式支石墓〉と呼ばれる類のものは、天井石を支える石に塊石が用いられており、室が設けられていない。この類のものは、朝鮮半島や日本の北九州におけるものであるが、九州のものは弥生時代の所産であり、朝鮮半島のものとの関係については明らかにされていない。また、九州では福岡県、佐賀県、長崎県、大分県、熊本県に知られており、土拡・甕棺・石棺などの地下施設が設けられている。福岡県春日町の須玖遺跡の例では、支石上に3.3m ×2mの広さの天井石が置かれ、その下に甕棺が埋められており、甕棺のなかに30画ほどの漢代の鏡、銅鉾6口、銅剣1口、銅戈1口、玻璃勾玉、玻璃小玉、シカ角製の管玉が副葬されていた。以上のほかに、1個または複数の天井石を有し、室が大きく構えられた類のものがある。この類のものは、最も発達した形式のもので、ヨーロッパにおけるパッセージ=グレーヴすなわち〈羨道墳〉や、羨道部と墓室との区別がつけられていないギャラリー=グレーヴすなわち〈通廊墳〉などのほか、日本における古墳の横穴式石室の羨道部も含められており、卓子形支石墓や碁盤形支石墓に比べて、構成に一段と差があるので、ドルメンのうちに含めない考え方もある。さらに、この類のものについては、古代文明期ないし国家成立期に入ってからのものが含まれている。メンヒルすなわち〈立石〉は、自然石もしくはいくらか加工した柱状の石を立てた形に配したもので、単独の例も2本以上がセットをなしている例もある。そして、それらのうちには墓の一部を構成している例もあるが、記念碑的なものとか、信仰の対象とされたものなどを含んでいる可能性も考慮されている。また、メンヒルはとくにフランスのブルターニュ地方におけるものが代表的で、アイルランド、イングランド、スペインなどの各地にもあり、近似した例をコーカサス、インド、東南アジアのいくらかの地方や日本に求めることができる。なお、日本列島における類例には、後述のような環状列石の一部をなした縄文時代後期のものがある。アリニュマンは立石が直線的に列をなしているもので、ドルメンほかの巨石墓との関連を考慮されたり、祭儀の場である可能性を考慮されたりしているが、調査例が少なく、その性格が十分解明されていない。なお、アリニュマンは、フランス、イギリスにおけるものが代表的で、ブルターニュのカルナックの例では、2千数百個の立石が総延長約3kmにわたって並べられているが、立石が数個以内の小規模のものもある。また、この形態的近似例を、インド、東南アジアの一部、蒙古、シベリアのミヌシンスク地方、太平洋のマリアナ諸島などに求めることができる。環状列石は塊石群や立石によった一重ないし数重の環状を呈する配石遺構で、墓または墓地を構成するものであると確認されている例もあるが、そのような場所ばかりとは言い難い。その大きさは直径数m以内の例から数十mを超える例まである。そして、この種の遺構はイングランド、北ヨーロッパ、西アジア、インド、蒙古、シベリア中央部、日本列島のとくに東北地方および北海道などに分布している。日本列島で最大の環状列石は、秋田県鹿角市の大湯遺跡の長径48mにわたるもので、数十基の小配石遺構群によって二重の輪が構成されており、小配石遺構群のなかに、中央に立石を伴う〈日時計〉と呼ばれる特殊な遺構が含まれている。また、この遺構群はすでに部分的に調査されており、この場が墓地であるという結論が出されている。なお、〈環状列石〉と呼ばれるものは、歴史時代にも構築例がある。さらに、ヨーロッパやアジア大陸の新石器時代と文化内容が近似している日本列島の弥生時代には、甕棺墓が九州から東日本にかけての広くに及んでいる。また、この時代の九州には、甕棺墓が天井石と支石のセットや環状列石を伴った例のほか、箱式石棺と共存した例もあり、加えて、単なる土拡墓に甕棺が埋められた形式の墓もつくられている。そして、単なる土拡墓で甕棺が用いられている形式の墓が、弥生時代の後期に広く盛行している。弥生時代にはまた、〈方形周溝墓〉と呼ばれる周囲を方形の溝により囲った墓も構築された。そのような溝は、各辺が数mないし10m前後の例が多く、幅が1〜2m程度で、また、溝が部分的に途切れている例も多く、そのような溝に囲まれた内部に土拡が1ないし数基配されている。溝のなかにはまた、壺形土器・甕形土器・高坏・器台などの土器類や鉄器類・ガラス製品などが副葬されている。それらの副葬品のうちとくに壺形土器や甕形土器に、底部や胴部を穿孔されたり、一部を打ち欠かれたりしている例が多々あるが、そのような行為は、副葬品の霊的存在を死者の霊的な存在に伴わせて他界させる儀礼的行為と考えることができる。なお、このような方形周溝墓は、弥生時代のうちでもとくに後期に盛行しており、特定の社会的役割をもった人物のために設けられたものと推定されている。そして、そのころの〈倭人〉国の状況を物語る『三国志』の記事のなかに、〈卑弥呼以って死す。大いに塚を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更々相誅殺し、当時千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女壹与年十三なるを立てて王と為し、国中遂に定まる。〉とあるが、卑弥呼の墓は発見されておらず、弥生時代の徇葬の証拠もあげられていない。
【古代文明期】文明期の墓については、とくに古代のものにきわめて大規模な形成例がある。いく例もの民族史上で、そしてまた、人類史的にみても、古代文明期に最大規模の墓が築造されている。古代文明期においては、階級差がはなはだしく、社会構成員による諸活動がとくに一頂点で集約され、さらに、政治と宗教とが一体化されるという傾向が顕著であり、社会的に頂点に立つ者の死について、そのような社会性を反映した大規模な象徴的墳墓が設けられている。なお、このような墓のうちには、葬られる者の生前のうちから築かれた例もある。また、大規模な墓の代表的な例をあげると、古代エジプトのピラミッド、バビロニアのウルの聖域の王墓、中国の秦・漢時代の帝陵、日本における古墳時代前半期の天皇陵などがある。古代エジプトの王墓のピラミッドは、第3王朝より第17王朝のあいだに構築されているが、第3王朝から第6王朝時代に主要なものが集中的に建設されており、とくにこの第3王朝〜第6王朝のあいだが〈ピラミッド時代〉と呼ばれている。また、その本体と付属構築物とを含めた全体が、ピラミッド複合と呼ばれている。ピラミッド複合の内容は、入口、通路、ミイラを安置した玄室などを伴う角錐形の本体、葬祭殿、遺体聖浄の儀式を執り行ったり、ミイラをつくるための流域殿、参道、周壁、木造船および木造船を収容した濠などである。ピラミッドの最大のものは、ギザに設けられた第4王朝のクフ(Khufu)王のもので、高さが146m、基辺が230m、傾斜角度が51゜52´である。この東側に小型のピラミッドが3基あり、それらは王妃や王女のものと伝えられているが確かではない。そして、以後ピラミッドは小型化して行く。なお、ピラミッドの玄室や羨道の石壁に、ピラミッド・テキストと呼ばれる葬礼文書が彫られた時期がある。ウルの王墓はとくに副葬品の豪華さや殉葬墓を伴っていることで注目されており、シュブ=アド女王墓の例では、金、銀、ラピス・ラズリ、瑪瑙などによる装身具を身につけ、ラピス・ラズリ製の女王名入り円筒印章が傍に副葬されていた女王の墓室と、20人の殉葬者の墓とが別に設けられていた。なお、その殉葬者らのうち、5人は墓口を守る衛兵、1人は竪琴をもった女性、9人は髪飾りをつけて列をなした女性、4人はロバに引かせる二輪車の馬丁であり、そして、1人は馬丁らを伴う従者である。 秦の始皇帝陵においては、方形台状の墳丘が高さ約76m、東西約345m、南北約350mの規模で築かれている。また、この帝陵は70余万人の刑徒によって築かれたものとされている。そして、墳丘の周囲に外壁と内壁とがめぐっており、前者が東西974.2m、南北2,173mで、後者が東西578m、南北684.5mにわたっている。なお、始皇帝は都城の中央部に宮殿を設けるという生前の方法を、陵に当てがったと考えられている。また、このような帝陵の築造方法は、その後漢代以降まで受け継がれて行く。日本における5世紀の天皇陵も、きわめて大規模な墓の築造例である。天皇陵の古墳のうち最大のものは、仁徳陵であり、全長が486m、前方部幅が305m、その高さが34m、後円部直径が250m、その高さが36mで、周囲に三重の濠がめぐらされている。1872年にこの封土の一部が崩壊したさい、竪穴式石室のなかに長持形石棺が置かれ、冑・甲・刀・ガラス器ほかが副葬されていたと伝えられており、墳丘上で葺石、円筒埴輸、女子・家・馬・犬・水鳥などの形をした象形埴輪が発見されている。また、この陵の外濠のまわりに陪塚が10余基築かれている。なお、仁徳陵は濠を含むと世界最大面積の墓であり、仁徳天皇自らが河内の石津原のその土地を選んで、生前から築かせた〈寿陵〉である。そして、古墳は仁徳陵を頂点として、以後しだいに小型化する傾向を示すが、その性格や内容に時代的差違を認めることができ、そのような文化的差違によって古墳時代の細分がなされている。しかし、古墳時代の時期区分法には、前期・中期・後期の3時期に分ける方法と前期と後期の2時期に分ける方法とがある。また、後者の2時期に区分する方法は、さらに二通りに分かれている。なお、古代においては、君主の墓を既述のように大がかりに築造した例があるが、概して支配階級に属する者の墓と人民の墓との差違がとくに大きかったといえよう。
【中世以降】封建社会では、一般に君主ないし支配階級に属する者たちの採り入れた宗教もしくは宗派が、全体にも及ぼされ、そのような特定の宗教・宗派にもとづいた形式をふむ墓が広められた。日本では中世以降いわゆる仏式のものが主流を占め、その場合は墓標が塔形をなしている。さらに、日本の近代においては、キリスト教の布教活動がかなり盛んに行われて、洋風の墓が増え、さらに、特定の宗教にこだわらない公共施設としての〈共同墓地〉も設けられるにいたった。また、近代にはイギリス、イタリア、ドイツ、アメリカなどの西欧諸国で、公園的要素を多分にもった墓地が設けられており、日本でも最初の〈風景墓地〉である東京都営の多摩霊園が、1923年(大正12)に開かれている。
【葬法・葬制との関係】葬法は民族や地域によりさまざまであり、往々にして墓の形式や形態が葬法と密接な関係にある。たとえば、土葬の場合には、少なくとも土拡程度の地下施設を設ける必要があり、一般的には地上施設をも伴っているが、洞窟葬の場合には必ずしも土壙のような人為的施設を必要としていない。また、水葬や風葬の場合には、必ずしも墓が設けられない。加えて、葬制ないし墓制が墓地に反映した例をあげると、たとえば、日本における〈両墓制〉によっては、〈埋墓〉と〈詣墓〉とが別に設けられている。
〔参考文献〕Herbert Kuhn、角田文衛訳『人類と文化の誕生』1958、みすず書房
森浩一編『墓地』1975、社会思想社
