●廃藩置県 はいはんちけん
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1871年(明治4)7月14日に行われた明治政府の改革。大名領である藩を全廃して新たに県を置き,地方行政制度を一変させた。この改革によって近世の幕藩体制は名実ともに廃絶され,中央集権的政治体制が確立,日本近代国家形成の一大画期をなした。【明治維新後の藩】戊辰戦争が始まった1868年(慶応4)1月,新政府は旧幕領・旗本領の接収を宣言し,重要地に裁判所を設置していったが,閏4月21日の政体書で政府直轄地に府県の設置を定めた。前将軍の徳川氏の駿府70万石への移封(駿府藩のち静岡藩),東北・北越地方の朝敵藩の減封・移封,若干の新藩の設置によって東日本の藩の状況は大幅に変動したが,西日本に多い勤王藩も含めて諸藩の従来の藩債に加えて,戊辰戦争のぼう大な戦費に苦しみ,また旧来の民政が破綻し農民一揆が続発し,藩体制そのものが危機的状況におちいった。新政府はしだいに藩政への統制を強め,同年10月28日,藩治職制によって藩の職制を執政・参政・公議人とすることを規定。1869年(明治2)6月17日,版籍奉還によって藩主を新たに知藩事(ただし○○藩知事と呼称)に任命,政府直轄府県の知事と同じ官吏の扱いとし,さらに6月25日には諸務変革11項を達し,知藩事の家禄を藩の現石高の10分の1とするなど,大幅な藩政改革を命じた。また7月8日の職員令により知藩事のもとに正権の大少参事を置くことが定められ,各藩は家臣の禄高削減をはじめ職制・民政全般にわたって改革に着手した。1870年9月10日の藩制布達により藩の独自性は少なくなり,政府の意向を受けた藩士層が藩政を掌握,廃藩の前提条件が形づくられた。
【廃藩論・郡県論】維新の当初から,政府首脳の一部には廃藩論があったが大勢を占めるにいたらず,また1869年5月の公議所における郡県・封建是非論においては,郡県論102藩,封建論113藩,いずれでもないもの2藩,ほかは不明とあるように論議はあい半ばしていた。しかし郡県論の台頭はこの時期の藩政維持のいちじるしい困難と無縁ではなく,この年には吉井・狭山両藩が廃藩を申し出て認められ,翌1870年にも盛岡,長岡,多度津,丸亀などが廃藩している。政府部内では1870年秋ごろより廃藩論が強くなったといわれるが,近年の研究では1871年に入って,廃藩論が薩長土肥4藩出身者を中心に燃えあがったとされている。
【実施経過】1871年2月,薩長土3藩の兵力1万をもって政府直属の御親兵を組織することとしたが,これが6月末までに編成され,この軍事力を背景に廃藩置県が断行された。まず6月25日,人事異動を行って西郷隆盛(薩摩),木戸孝允(長州)の両実力者のみを参議とし,7月2日,貨幣偽造を理由に福岡藩の廃藩を命じ,同月14日,在京56藩の知藩事を召集して廃藩置県の詔書を下した。これにより261藩が県とされ,旧知藩事は免官のうえ東京府貫属となり,県の事務は大参事以下に仮りに所管された。従来の政府直轄府県とあわせて3府302県となるが,10月28日,府県官制を定めて府県とも知事(または権知事)・参事などを置くこととし,11月2日には県知事を県令(権令 ごんれい)と改めた。また10月末から11月にかけて府県の統合を行い,3府72県とし11月27日県治条例を定めた。廃藩置県とともに政府は藩債をふくむ藩の資産を接収,旧家臣については家禄支給を継承したが,藩債・藩札・家禄の処分と,地租改正・郡政改革などが重要な課題となった。
【琉球=沖縄の廃藩置県】近世初頭以来,清国の宗主権下にありながら薩摩藩の支配を受けていた琉球王国のみは特異な廃藩置県が行われた。1871年7月の廃藩置県以後鹿児島県の管轄とされたが,1872年9月14日,国王尚泰を華族に列し,琉球藩王とした。琉球の帰属については藩内に反対論が生じ,また日清間の外交問題にも発展したが,1879年4月4日,琉球藩を廃し沖縄県を置いた。これを琉球処分という。
〔参考文献〕原口清『日本近代国家の形成』1968,岩波書店
下山三郎『近代天皇制研究序説』1976,岩波書店