●ハイネ
ヨーロッパ ドイツ連邦共和国 AD1797 ハプスブルク朝
1797〜1858 ドイツの詩人。デュセルドルフに生まれハリーと名づけられた。ギムナジウム卒業後,フランクフルトやハンブルクの銀行の見習いに出されたが性に合わず,結局裕福なおじザロモンの助成金によって,1819年以降,ボン大学で法律学を専攻することになった。しかしこれにも専念できなかったが,幸にしてシュレーゲルの講義を聞く機会を得た。1821年,冬学期決闘事件にまき込まれ退学勧告を受けた。1821年,ベルリン大学に移ったさい,有名なラヘル=ファルンハーゲンのサロンに参加することができ,数多くの有識者と交わることができた。1925年,ゲッティンゲン大学で法律学の学位をとるが,そのさいユダヤ教からプロテスタントに改宗した。しかし,彼の興味の中心は詩作にあった。1821年末には,すでに処女詩集を出版していた。それには幼少期ロマン主義全盛のラインの国土に育てられたことも大きな原因の一つであった。1811年,デュセルドルフに滞在したナポレオンを知ることにより,しだいにフランスの体制に引かれていった。それゆえ,メッテルニヒの神聖同盟によるドイツ復古体制には強い反発を感じることになった。1826年から1831年にかけて書かれた『旅の絵本』は,談話風の文体で,自然と人生の観察に鋭い辛辣さと皮肉を交えた表現になっている。作家としての名声を得たのは1826年の『ハルツ紀行』で,翌年出版の『歌の本』によってその名声は世界的なものとなった。しかしその詩の内容は,単なる伝統的な叙情詩のものというよりは,自らの感情との戯れ,自己風刺など,ロマン主義的なものへの嘲笑や風刺であった。ハイネは時代の流れを鋭敏に察知し,ゲーテの死とともに古い〈芸術の時代〉の終焉と,新しい〈行為の時代〉の到来を宣言し,青年ドイツ派に親近感を持つようになった。その意味において彼の作風は,ドイツロマン主義からリアリズムにいたる様相を帯びているのも,この点から説明がつくといえよう。先年出版した『旅の絵本』などの辛辣な論評はドイツ政府の追求するところとなったため,1831年,憧れのパリに移住することになった。そこではアウグスブルク=アルゲマイネ新聞の通信員として,ドイツとフランスの仲介者の役割を果たした。そのさい書かれたものが,のちに『ロマン派』といわれる『ドイツ現代文学史』であり,また『ドイツ宗教・哲学史』であった。この作風は今世紀にいたるまでドイツ-ジャーナリズムに大きな影響を与えた。しかし,青年ドイツ派を取り締る当時のプロイセン政府は,1835年,ハイネのこれらの著述をいっさい発禁処分にし,1844年には逮捕命令まで出した。1843年,ハイネは『アッタ=トロル,夏の夜の夢』1844年には『ドイツ=冬物語』において,ドイツの弱点を痛烈な風刺で嘲笑的に表現した。1844年までに作られた叙情詩は同年に『新詩集』にまとめて出版された。韻律,ことばの心地よい響き,情緒の素朴さなどによって彼の詩は,ゲーテ以降19世紀詩人のなかでは最も愛読されることになった。1848年以後死にいたるまでの9年間は,脊椎カリエスのため,いわゆる「褥(しとね)の墓場」を離れることができなかった。
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