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●排日運動 はいにちうんどう

アジア 中華人民共和国 AD 

 中国各層の人々が日本の侵略に反対し,日本軍・日本人および日本商品などを平和的もしくは武力的手段を行使して排斥した運動。

【経済面での排日運動】有名なのは日本商品ボイコット(日貨排斥)運動である。中国における外国商品ボイコット運動は計11回にのぼるが,アメリカとイギリスに対しては各1回で,残り9回は日本に対してのものであった。その目的は日本の政治的・軍事的侵略と並行して,多数の日系工場が設立されるなど,大規模な「経済侵略」があり,それに抗することにあった。第1回目の対日ボイコットは1908年(光緒34)の第二辰丸事件を契機におこった。事件の発端は,日本商船の第二辰丸が鉄砲94箱,弾薬40箱を密輸しようとして清朝に拿捕された際,日本は“日章旗侮辱問題”にすりかえて軍艦を派遣して威嚇し,逆に清朝を謝罪させ,賠償金を支払わせたことにある。この屈辱外交に対して対日ボイコット運動が広東・香港中心に華南一帯で闘われた。たとえば広東民衆は広東自治会に結集し,主権侵害を訴えて日本商船・商品ボイコットを決行した。ただ,この運動は清末の経済恐慌中に発生したため,経済中枢部の反応が鈍かったし,立憲派がボイコットに積極的だったのに比して孫文ら革命派がボイコットに消極的など,足並みの乱れがみられた。第2回目は,1909年,安奉鉄道改築の日中交渉の行き詰まりに対して,日本側が一方的に「自由行動宣言」,最後の通牒を突きつけたことへの反抗として行われた。その背景には,日本が憲兵支配を強化して政治・経済命脈をしだいに掌握していったことに対する知識人・学生の危機感があった。日本商品ボイコットと鉄道利権回収運動が華北で並行して闘われたが,これらは各種の民衆運動と密接に関連しながら辛亥革命へと傾斜していったのである。第3回目は1915年(民国4),日本の二十一カ条要求に反対して北京・上海など都市部を中心に数カ月間闘われた。最初に立ち上がったのは学生で,動揺する商人にボイコットを続行させ,労働者を説得して運動を強化した。第4回目は1919年の五・四運動とタイアップされた形で推進され,民族運動を中核に労働者も参加して全国的に闘われた。ナショナリズムを背景にした日本商品ボイコット,国産品愛用運動は,中国の弱体な民族資本を擁護・振興する上でも意義があった。この運動はワシントン条約山東問題が解決するまで続行した。第5回目は1923年旅順・大連の返還を要求し,華中で激しく闘われた。五・四運動以来,発展を続けてきた民族資本が恐慌などによって倒産し始めたこと,中国共産党指導の労働運動が高まりを示したことを反映して商品ボイコットから一歩進んで経済絶交運動という形態をとった。すなわち,ボイコットのみならず,労働者のストライキによって日系工場を操業停止に追いこみ,窮極的には全面的な対日経済断交をめざしたのである。第6回目は五・三○事件を契機に勃発した対日本・対イギリス経済絶交運動である。指導権は民族資本家,知識人,学生から組織労働者へ移行し,前回よりボイコットとストライキが強力に推進され,日本・イギリス両国の商品流入を完全に阻止した。第7回目は1927年の「山東出兵」を,第8回目は済南事件を契機に上海,広州などで闘われた。ただ,この2回のボイコットは四・一二クーデター以降,反動化した国民党によって骨抜きにされていた。確かに,国民党はボイコット運動を組織だて,綱領も整えたが,同時に共産運動をはじめ,労働運動・学生運動など各種運動を弾圧した。これらの運動がボイコットで力を発揮できる状態にはなかったのである。第9回目は1931年満州事変の勃発による民衆運動の台頭を契機にしている。今回の対日絶交運動は過去のボイコット運動の創意,工夫,手段をすべて採用し,その上,新方式もあみだし,全国的規模の運動になったばかりか,海外華僑もこれまで以上に積極的に参加した。指導団体も「反日会」から「抗日救国会」に改められた。そのなかには民族資本家はもちろん,政治ストで呼応した日系工場の労働者や糾察,商品検査,宣伝,啓蒙などを行った学生などが含まれていた。以上のように,対日ボイコット運動は繰り返し闘われたが,意義は次の諸点にある。[1]対日ボイコット・経済絶交運動は,弱国が強国に武力ではなく,経済面での民衆運動形態で抵抗し,半植民地が帝国主義を打ち破る最良の方法であった。[2]関税自主権を喪失した半植民地中国で,ボイコット運動は保護関税の役割を果たし,民族資本の発展を援助した。[3]民族資本家,知識人,学生,労働者,農民が近代的ナショナリズムの感情で連帯し,抗日民族統一戦線の先駆となった。

【武力排日運動】満州事変後,強まる日本の侵略に対して蒋介石は相変わらずソヴィエト区攻撃を優先する「安内攘外」論をとり,対日不抵抗・対日妥協を繰り返していた。張学良,東北軍の主力は内心不満を抱きながらも対日不抵抗政策にのっとり撤退したが,各地の軍隊や民衆は武力排日運動を開始し,その範囲は東北地方全体にひろがった。同地の排日武装力は大きく四つに分かれる。[1]東北軍の元将兵。たとえば,遼寧の唐聚五,吉林の李社,黒竜江の馬占山らの義勇軍。[2]東北軍旧部隊と民衆の合体軍。たとえば,王徳林の救国自衛軍。[3]農民の抗日武装力。たとえば,秘密結社“大刀会”“紅槍会”など。[4]一部の地主武装。1931年末,馬占山は北満嫩江の役で多門師団を殱滅し,李社は松花江下流一帯で抗戦した。馮占海は吉敦線を破壊し,王徳林らも抗戦を続けた。1932年,東北義勇軍の抗日活動は激しさを増し,救国自衛軍は大通線で激戦を演じた。また,馬占山は「満州国」否認声明を出し,各地を遊撃した。1933年5月,馮玉祥と共産党員の吉鴻昌は「対日断交」「失地回復」を掲げて“察綏抗日同盟軍”を結成した。同盟軍は正規軍,東北義勇軍,農民,知識人,学生によって構成され,結成当初,数千人であったものが,一挙に十数万人となった。しかし,1933年末,敗北を喫した。ほかに,共産党直接指導下の抗日武装力も存在した。共産党の各都市の労働者,知識分子は次々と農村に入り,農民を組織して遊撃戦を発動した。1935年にはこれら遊撃隊を結集して“東北人民革命軍”を組織した。一方,上海でも1932年1月,日本が居留民保護を名目に約3,000人の陸戦隊を上陸させたため,19路軍が上海防衛のため抗戦に立ち上がった(上海事変)。労働者はストライキや救援隊を組織して支援し,民族資本家,婦人,学生も物質両面から援助を惜しまなかった。こうして抗戦は1カ月余り続いたが,停戦となり,19路軍は蒋介石の命令で紅軍攻撃のために福建に移動させられた。しかし,1933年11月,19路軍の蒋光ダイ※注1※や蔡廷ガイ※注2※らは社会民主党,第三党,トロツキー派広西派と結んで,「福建人民政府」(正式名称“中華共和国人民革命政府”)を成立させ,「反蒋抗日」を宣言した。同時に「人民権利宣言」と「人民政綱」18カ条を発布し,そのなかで不平等条約撤廃とともに言論・集会・ストライキの絶対自由や土地均分などを訴えた。このように同政府は反帝反封建のブルジョア民主主義的要素を有していた。しかし,「討逆軍」総司令を自ら任じた蒋介石の攻撃を受けて,1934年1月瓦解した。当時,共産党は福建人民政府と「抗日反蒋協定」を締結していたにもかかわらず,王明極左路線の指導下で同政府を「軍閥政府」とみなし,ほとんど救援の手を差し伸べなかったのである。1935年,長征途上中共中央は八・一宣言を発し,「抗日救国」を訴えた。12月,これに呼応して北平で「内戦停止と一致抗日」を主張する大規模な学生運動,一二・九運動が勃発した。1936年1月,東北地方の各抗日軍は“東北抗日連軍”に改編され,楊靖宇を総司令に,統一指揮のもと抗日作戦を行うことになった。このとき,東北地方の抗日兵力は30万人に達していた。同年5月には全国各界救国連合会も成立した。このように次々に抗日軍・抗日団体が生まれ,ときには失敗しながらも統一の方向に進み,排日・抗日の要求が全国的規模で圧倒的な高まりをみせるなかで,西安事変が勃発し,1937年9月には第二次国共合作,抗日民族統一戦線が結成された。かくして「全民抗戦」段階へと突入することになったのである。

〔参考文献〕菊池貴晴『中国民族運動の基本構造』改訂版,1974,汲古書院

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