●ハイドゥ 海都
アジア モンゴル国 AD
?〜1301 モンゴル帝国の諸ハン国の一つであるオゴタイ=ハン国の君主。オゴタイ(太宗)と正后トゥラキナとのあいだに生まれた第5子カシ(合失)の子。モンゴル帝国の大汗位は,チンギス=ハンの死後,その第3子のオゴタイ,ついでその長子のグユクと,オゴタイ家によって継承されてきたが,第4代の大汗位はトゥルイ家のモンゲ(憲宗)に奪われたため,両家のあいだに対立が生じた。この紛争によりオゴタイ家の領地は解体され,ハイドゥはイリ河畔のカヤリクに移らされた。そして,トゥルイ家のフビライ(世祖)が,帝国の宗主権を継いで元朝を興すと,家の再興をめざすハイドゥは,一族を糾合して公然と元朝に反旗を翻した。まず,1260〜64年(中統1〜至元1)のフビライとアリクブガの兄弟間の争いでは,アリクブガに加担しつつ,オゴタイ=ハン国の故地を回復し,1266年には元朝の西北辺を侵し,1268年にはカラコルムに駐屯し,モンゴル本土の統治を担当していた北平王ノムガン(世祖の子)を攻撃した。そして,1269年には,トルキスタンでクリルタイを開催し,ハイドゥを中心にオゴタイ家,チャガタイ家,ジュチ家の諸王の会盟に成功した。その後,ハイドゥは,1275年チャガタイ=ハン国のドゥワと連合してウィグリスタンを攻撃,1277年にはイリ河畔のアルマリクに進駐したノムガンが右丞相アントン(安童)とともに,麾下のシリギ(モンゲの子)の裏切りにあい,ハイドゥの軍にひき渡される事件が起こる。このときは,南宋平定に大功のあったバヤン(伯顔)が西北辺に転じて,この方面の危急を救った。また,1287年には,ナヤン,カダンを中心とする東方三王家の諸王がハイドゥに呼応して立ちあがり,元朝は重大な局面を迎えるが,世祖の親征,皇孫テムル(成宗)の出鎮により東方は静謐となる。しかし,西北モンゴリア方面では両軍は一進一退を続け,元朝側では1293年に北辺を治めていたバヤンが召還され,代わってテムルが派遣された。やがて世祖の世が終わり,北辺防衛軍の勢力を代表するバヤンの支持を得たテムルが即位し,成宗の時代となる。そして,1301年(大徳5)にハイドゥとドゥワの連合軍が大挙して侵入し,これをカイシャン(武宗)がトゥトゥカの子チョングルらとともに,アルタイ山麓に迎撃した。両軍のあいだに激戦が展開され,ハイドゥが一応勝利を得るが,その帰途,雄図むなしく倒れた。ハイドゥの死後,その子チャバルが後継したが,対元朝戦の不利を悟り,1305年,ドゥワとともに講和を申し入れ,成宗の宗主権を認めるにいたった。その後,多少の迂余曲折を経るが,ここに約40年にわたるハイドゥの反乱が終息する。なお,チャバルは1310年,(至大3)元朝に参内し,1315年(延祐2)汝寧王に封ぜられた。また,この反乱は,モンゴル帝国の大分裂を最終的に決定させるとともに,元朝にとっては,ハイドゥに相対した北辺防衛軍が,やがて元朝の内政を左右する勢力になるのである。