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●売春婦 ばいしゅんふ

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定義として、売春防止法では〈対償を受け、または受ける約束で、不特定の相手方と性交すること〉とある。わが国におけるその歴史は神社の巫女に始まるといわれるが、文献にみえるものは奈良時代の『万葉集』や『扶桑略記』の遊女婦(うかれめ)、平安時代の大江匡房の『遊女記』『傀儡子記』にみえる遊女・傀儡女(くぐつめ)などである。遊女の群に長者(ちょうじゃ)が存在したことが『新猿楽記(しんさるごうき)』などの文献によって明らかである。傀儡女は諸国を遊歴した漂泊の民である。平安末ごろから白拍子が登場、鎌倉時代にかけ全盛となる。水干姿(男装の一種)で、今様(流行歌)を歌いながら男舞を演ずる芸能者で宮廷に出入し、貴族社会を舞台としていたがやがて売春婦となり、中世末ごろから文献上姿を消す。鎌倉が政権の中心になるにつれ、東海道の交通量が増加し、その道中に遊女が目立つ存在となる。『海道記』(1223)・『東関紀行』(1241)は、宿駅で遊女が歌を歌い客を呼んでいた様子を伝えている。このころ宿の長者のもとに春を売る女がいたことは明らかで売春組織の片鱗が文献に見出される。『吾妻鏡』などによると、宿の長者はのちの女郎屋の主人のような冷酷残忍な姿はみせていない。公娼制度ができたのは鎌倉時代からで、幕府に遊女別当が置かれ、遊女を取り締まり、税を課した。人身売春・誘拐・略奪も多く、売春組織の発達と密接につながりがある。室町幕府は傾城局を設けて、洛中洛外の傾城から遊女一人の年税15貫文を課した。すでに宿の長者の姿は消え、遊女屋・傾城屋となった。1589年(天正17)、これまでの散集制度から遊女屋を一カ所に集める集娼制度がとられ、京都冷泉萬里小路柳の馬場に新屋敷(柳町遊廊)をつくった。これが遊廊の初めである。江戸幕府は、1617年(元和3)江戸葺屋町元吉原の地に遊廊を開き、独特の遊廓制度をつくり出した。以後全国にも続々と遊里遊廊が設けられた。公娼のほかに、遊宿の飯盛女・茶屋の酌女・銭湯風呂の湯女(ゆな)などの私娼化、仏の道を説くべき比丘尼(びくに)まで売春婦に転向していった。これら売春婦は、幕府がたびたび人身売買の禁止令を出したにもかかわらず増加の傾向をたどった。彼女らは、年季奉公の名目のもと、身代金を前渡給金として渡され、下男下女の奉公と同じく奉公人請状を作成(遊女身売証文)した。年季が明記され、年季を勤め上げれば暇がとれる建前になっているが、勤め中にできた借金の返済、またはお礼奉公の名義のもとに、所定の年季を延長せしめられるのが例であり、客の身請を待つしか売春の泥水稼業から抜けられない仕組になっていた。これら売春婦たちは、貧しい百姓が租税に追いつめられて売った子や妻、あるいは大名取潰しなどで禄を離れた浪人の妻娘などで、その様子を伝える文献はおびただしい。明治になって、マリア=ルーズ号事件発生時の国際的関係から、1872年(明治5)娼妓解放令が公布された。だが政府は売春を全面的に禁止するつもりはない。翌年の法令で遊女屋は貸座敷業と改め、廃娼後の転業を考慮されていない娼妓は、再び舞い戻るしかなく公許の貸座敷業はかえって発展した。集娼地域・年季奉公・強制検診を内容として、警察権力に支えられ繁栄したのである。一方、キリスト教人道主義などの立場から女性の人権を侵害し、性道徳を破壊する社会悪として批判する廃娼運動も行われた。キリスト教婦人矯風会や救世軍が有名である。1946年(昭和21)マッカーサー司令部の公娼廃止の指令後も、赤線区域として黙認の状態がつづいたが、1956年5月売春防止法が成立した。だが成立後も大都市・観光地・温泉場・軍事基地などでは、コールガール・マッサージ業などに名を借りた売春が潜在し、待遇改善などが必要とされる。

〔参考文献〕道家斉一郎『売春婦論考』1928、史法出版社

滝川政次郎『売笑制度の研究』1948、穂高書房

渡部英三郎『日本売春史』1960、鏡浦書房