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●俳諧文学 はいかいぶんがく

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“俳諧”ということばは,文学史的には『古今和歌集』に滑稽な歌を集めた「俳諧歌」の部立に始まる。中世に入って連歌が高雅な文学に高められてからは,このジャンルでも俳諧之連歌という呼び方で余技的に滑稽な作品が詠まれた。中世末期に伊勢の荒木田守武山崎宗鑑によって,俳諧之連歌は単なる余技ではなく,時代の感情・思考型式を表現する文学様式とされた。それらの作品を集めて,前者には『守武千句』,後者には『犬筑波集』の編著がある。この伝統を受けついで,近世に入ってから17世紀の前期に京都の松永貞徳貞門風俳諧を樹立した。彼は俳諧を“俳言”を詠みこんだ連歌であると定義して,つくりやすいものにしたが,守武・宗鑑が滑稽を主としたのを修正して,古典的で温雅な方向に俳諧を導いた。貞門俳諧は京都に始まって広く全国的に流行したが,しかしその作風は時とともにしだいに固定し,停滞していった。1673年(延宝1)にこれを打破して,生き生きとした庶民的感情を思うさまうたいあげる作風を大坂の西山宗因が新しく展開した。談林調俳諧と呼ばれる。これに同調して,西鶴・惟中などが精力的に多作,活躍し,京都・江戸までもたちまち圧倒していった。当時桃青と号していた芭蕉もこの談林調の流行にひきこまれていった。しかし,談林調俳諧はあまりに庶民的現実に密着し,低俗化しすぎて,高い文学精神を欠いていた。それゆえ,延宝末年に至ると,俳諧に文学を求める作者たちは,談林調を超克して,より高い作風を模索するようになった。桃青をはじめとするすぐれた俳諧作者たちは,漢詩文,とりわけ杜甫・李白・蘇東坡らの作品をはじめとして,唐宋詩文に高い文学精神と広大な詩歌の世界を読みとり,またその思想的精神的基盤としての『荘子』『老子』の哲学をも探求して俳諧に取り入れた。こうして延宝末年から天和を経て1684年(貞享1)に至る時代に芭蕉ら先駆的な俳人たちによって展開された漢詩文調の俳風は天和調と呼ばれる。芭蕉門人其角編『虚栗』はこの作風を示す代表的な句集である。天和調によって,さしもの隆盛をきわめた談林調も抑制され,俳諧史の流れは慰技から文学へと決定的に方向づけられた。しかし,天和調は生硬で未完成の感を免かれなかった。この過渡期的作風をさらに超克し,変革して俳諧をさらに高い真の詩的文学に引き上げようと立ち上がったのが芭蕉であった。彼は旅の実践を通して新しい作風を形成しようと考えて野ざらしの旅に出る。そして名古屋で出会った荷兮・野水・杜国らの新人を開眼させ,彼らを連衆として『冬の日』五歌仙を作り,これによって探求していた新風を樹立した。ここで俳諧は初めて真正の文学の水準に到達することができた。以後『春の日』から『続猿蓑』にいたる七部集の作品を中心として芭蕉の俳諧は貞享・元禄の時代を代表する詩文学として確立された。その作風は“蕉風”と呼ばれる。この蕉風樹立までは,俳諧は連句を中心としていたが,芭蕉は発句を独立の詩として高め,約1,000句に上る作品を創った。以後は発句が時代とともに多くつくられるようになっていった。芭蕉没後,蕉風もやはり時とともに停滞し,固定していった。これを打破して清新な作風を展開したのが18世紀中期の蕪村に代表される安永・天明(1772〜88)の俳諧文学である。中興俳諧と呼ばれる。漢詩文調の,浪漫的で清新耽美的な作風で非現実的な空想的傾向をもつ。中興俳諧も18世紀中葉を過ぎると停滞し,行きづまっていったが,文化・文政の時代(1804〜29)になると,一茶・成美・何丸らの平明で大衆的な作風が一般に迎えられて盛行した。ここにいたって俳諧は実質的に文学ではなくなっていったが,明治中期に子規によって〈連句は文学に非ず〉と宣告され,〈俳句は文学の一部なり〉と認定されてから,俳句だけが文学とされ近時にいたっている。しかし1970年(昭和45)ごろから安東次男によって連句の文学としての再評価がなされ,それが芭蕉七部集の評釈によって立証されてから,俳諧は発句連句を含めて全体として文学としての存在をふたたび認められるようになった。

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