●暖簾内 のれんうち
アジア 日本 AD
本家店と暖簾をともにする分家(親族分家)や別家(奉公人分家)の家々が,本家を中心として形成した商家の同族的家連合(商家同族団)を,主として関西で暖簾内と呼んだ。店標として簡略なしるしを白く染め抜いた暖簾が一般化し,商家の信用を象徴する家標となった時期からみて,元禄ごろに確立したと思われる。正確にはノーレンウチと発音される。江戸では同じ集団が「店内」(たなうち)と呼ばれたと『守貞漫稿』(喜田川守貞)は記している。暖簾は,ただ店持ち商家が店頭に掲げただけでなく,本家店へ通勤して番頭をつとめた通い分家・通い別家の家々の住居でも,その通り庭の玄関と台所の境目などに掲げられもして,暖簾内への所属を内外に明示するものであった。暖簾分けということばは,丁稚制度と呼ばれる徒弟制度と関連して商家奉公人が年季奉公を終えて,主家から店持ち別家となることを許される場合だけを意味するかのように思い込まれている傾向があるが,そうではない。本家のアトトリ以外(傍系=非嫡系)の子は,他家の店へ見習奉公に出たり本家店で商いを修業したりして,他家へ聟入りするのでなければ,分家を創設してもらって暖簾分けを受け,分家初代として分家店を開店するか,本家店へ通勤して番頭の一人となるかした。アトトリでない息子だけでなく,娘に婿を取って同様な暖簾内の分家とすることもありえた。商家では,家長の親族関係者以外に家業上の住込奉公人,丁稚・手代,家事のための女子衆,家業・家事の下働きの男衆(下人・下男)がいた。そのうち暖簾分けを受けて別家初代家長となりうるのは,丁稚から寸馬(すんま)をへて手代となり,首尾よく年季奉公をつとめあげた者だけで,それには激しい淘汰選抜に耐え抜く必要があった。元服の年齢を過ぎてから中年者手代と呼ばれる形で奉公した者は,通常は男衆の場合と同様に暖簾分けを受けることができない定めとなっていたが,特別の才能と功績ある場合は例外的に中年者や男衆すら,別家ないし別家格に取り立てられることもありえた。分家か別家かいずれにせよ,暖簾分けを受けるとき,本家店とは別に開店して店持ち分別家となるか,本家店へ日々通勤して番頭をつとめるかの,どちらを本人が望むかは必ずしも一様ではない。小さくとも一店の主人となるのを選ぶ者もあり,逆に,本家店に番頭の一人として残って大きな商いに携わりたいと考える者もあった。このような本人の希望と,その時期における本家店の事情(番頭拡充の要否)との関連のなかで,新たな分別家がどちらになるかが決まった。分家は,本家の親類であるため別家より上位に置かれたが,分別家の地位はそれぞれ暖簾分けを受けた時期の古いほど上位とされ,店持ちか否かには関係がなかった。本家の姻戚関係家は分家と同様に,本家の親類の一部ではあっても本家の暖簾内(同族)とされるのは分家と別家だけで,姻戚家は含まれないのがふつうである。しかし,本家の娘が別家に嫁入った場合,本家との姻戚関係のゆえに,その別家が本家の親類となり分家格の扱いを受けることはありえた。分家や別家のアトトリは,本家店へ奉公して,本家家長とのあいだの主従関係を更新して初めて分別家の次代家長となり,初代家長が本家から与えられた暖簾の継承は,そのことによって本家から改めて承認された。暖簾内として本家と暖簾をともにし,仕入先や顧客に対する信用において連帯することは,実際に分別家の失敗があった場合に本家による保障がなされる必要を生じえた。逆に,本家の失敗を分別家が協力して補い,暖簾の信用を維持することもありえた。しかしながら,商いの世界における実力によってのみ暖簾は支えうるものであり,本家の没落により暖簾内が分裂し,有力な分別家を頂点とする同族分肢(分家や別家とそこから出た分別家よりなる)が生き残ることもあり,農家の場合以上に家々の浮沈・弱小な暖簾内の解体による新陳代謝は激しかった。〔参考文献〕中野卓『商家同族団の研究』1964,未来社