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●ノルマン=コンクェスト

ヨーロッパ 英国 AD1066 ノルマン朝

 1066年,ノルマンディー公ウィリアムによるイングランド征服をいい,イギリス史上の画期的な事件とされている。

【征服前のイギリス】5世紀にアングロ=サクソン族が移住して以来,七王国(ヘプターキー)が並立していたイングランドでは,829年エグベルトにより統一がようやく成就された。ところが,このころよりノルマン人の一派デーン人の侵寇が激化した。9世紀末に登場したアルフレッド大王(在位871〜899)は,海軍力の強化によりその撃退に成功し,その後しばらくは平穏であったが,1016年にデーン王カヌートが侵入して一時イングランドを征服し,デーン朝(1016〜42)を開いた。ようやくエドワード懺悔王がアングロ=サクソンの王として復位したものの,イングランドは著しく不安定な状態にあった。

【ノルマンディ公ウィリアム】911年ノルマン人首長ロロが西フランク王より北フランスに封じられて成立したノルマンディー公国は,名目上はフランス王に臣従したが,実際にはほとんど自立した状態にあった。1027年ウィリアムはこの公国の当主となった。彼は武人としてのみならず政治家としての資質もそなえ,早くからイギリス王位を継承する野心を抱いていたという。彼は,ノルマンディー公家がイギリス王家と婚姻関係にあるのを口実に,その王位継承権を主張し,1051年にはエドワード懺悔王より相続者としての指名を受けることに成功した。ところが,1066年エドワードが死去にさいし,義弟ハロルドに王位を譲ったことから事態は紛糾した。ローマ法王庁の有力者ヒルデブラント(のちの教皇グレゴリウス7世)と密接な提携を保っていたウィリアムは,教皇庁を味方につけ,ハロルドを王位簒奪者と決めつけ,自らの継承権を正当化して,武力によるイングランド征服に向かった。

ヘースティングズの戦い】公国の貴族らを率いたウィリアムは,急拠建造した船で海峡を渡り,1066年9月末イングランド東南部に上陸した。当時ノルウェー軍と交戦中であったハロルドは急いで軍を返し,ヘースティングズでウィリアム軍と相対した。10月両軍は戦闘を開始した。ノルマンディー騎兵が突撃したが,イングランド軍は楯の列によってこれを押し返し,ノルマンディー軍は3度撃退された。しかし,退却とみせかけておびきよせたイングランド軍を騎兵隊で包囲した作戦が成功し,イングランド軍は壊滅,ハロルドも戦死した。敗走するイングランド兵を追いつつ南イングランドを征服したウィリアムは,ついにロンドンに入り,同年クリスマスの日ウェストミンスター寺院で,イングランド王ウィリアム1世征服王)として戴冠した。ノルマンディーのバイユー本寺の博物館に残る壁掛けの絵は,ノルマン=コンクェストのいきさつを描いたものとして名高い。これは幅50cm,長さ70mの麻布に73の場面が刺繍されており,当時の戦闘の有様を生まなましく伝えている。

【ノルマン=コンクェストの意義】即位したウィリアムは,その後数年のあいだに反抗する勢力を徹底的に破り,全イングランドの征服を完了した。そのさい,彼は旧来のアングロ=サクソン系大土地所有者の領地を没収して配下のノルマン人へ分与し,その過程において大陸風の封建制度を移植し,しかも厳格な行政・司法組織を樹立することにより,強力な集権的封建国家をつくりあげた。一方,ウィリアムは初めて全国的な土地調査を実施し,ドゥームズデー=ブックと呼ばれる大がかりな土地台帳を作成し,土地・人民の掌握と徴税の確保を容易にした。これは社会経済史上の貴重な史料として知られる。さらに彼は教会改革を実施し,国王による教会支配というイギリス的伝統の基礎を築いた。このように,イギリスの独自性を強めながらもイギリスが西ヨーロッパ文化圏への帰属を確実にしたのは,このノルマン=コンクェストによる。

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