●野中兼山 のなかけんざん
アジア 日本 AD1615 江戸時代
1615〜63(元和1〜寛文3)江戸時代初期の土佐藩の政治家。名は良継。伝右衛門・主計・伯耆と称す。父は良明,母は秋田万。姫路で生まれ父の死後土佐に帰り,分家の野中直継の養子となり直継の娘市を妻とす。1631年(寛永8)奉行職となり強力な藩政を展開,南学を身につけ封建道徳の実践につとむ。用水路を建設して新田を開発し,物部川の山田堰,仁淀川の八田堰・鎌田堰をはじめ多くの井溝をつくり,香長・吾南・高岡その他の平野を潤した。新田開発には長宗我部氏遺臣の一領具足の子孫を起用して郷士に取立て不満をやわらげ軍事力の強化をはかった。殖産興業・港湾修築に手腕を発揮するとともに,掟書を発布して領民支配を強化した。宇和島藩と沖ノ島(宿毛市)・篠山で境界論争を展開したが,争論や開発のため資金を紙・茶・漆などの専売に依存した。領民の夫役過重と相まって非難がおこり,政敵の弾劾をうけ1663年(寛文3)奉行職を罷免さる。同年12月15日領地の香美郡山田村中野(土佐山田町)で急死す。遺族は幡多郡宿毛(宿毛市)に配流となる。娘婉のたてた兼山の墓は潮江山(高知市)にある。〔参考文献〕横川末吉『野中兼山』1962,吉川弘文館
平尾道雄『野中兼山と其の時代』1970,高知県文教協会
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