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●農民解放 のうみんかいほう

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 農民解放とは,封建的な制度のなかで隷属的な環境を強いられて農業活動をしなければならない農民を,そのような環境から解放することである。地主によって耕地を所有できず,しかも土地に強制的に縛りつけられていた農民が,土地所有の農民となり,封建的制度が廃止されるようになるために農民運動による抵抗・闘争が繰りひろげられた。農民解放はいわば近代化のために必須の事態であったといってよい。

【ロシアの農民解放】1861年2月19日にロシアのアレクサンドル2世は,農奴解放令を発布した。これはそれまで封建的な環境のなかで農奴にほかならなかった農民を“解放”するものであった。ロシア帝国は,ロマノフ王朝時代に農奴制が最もひろまり,農奴は苛酷な隷属の生活を要求されていた。貢租と賦役が強化されて,そこから逃れることは困難であった。たとえば,賦役は18世紀末には週3日であったが,19世紀には5日ないし6日となり,貢租は1ないし2ルーブルから30ルーブルまでに増加されていたことからも当時の農民の置かれていた極限状態は窺える。当然のことながら,こうした困窮は農民をして,支配階級や地主に対する闘争へと駆り立て,農民運動は爆発的な勢いでひろがっていった。このような農民運動の盛り上がりは,ロシア帝国政府に対外戦争,すなわちクリミア戦争を計画させた。しかしこの戦争は失敗に終わり,アレクサンドル2世は大御心による“農民解放”をして国内の問題の激化を避けようとしたのである。かくして,農民解放の宣言は,1861年1月に参議院に提出され3月5日に発布された。この宣言には次のような内容が盛り込まれていた。[1]これまで隷属的状態にあった農奴に対して,自由な農村居住者たる権利を与える。[2]これまでの農奴制による貢租・賦役などは免除される。[3]土地については農民と地主の自由意志にもとづく協定によって決定する。こうしてアレクサンドル2世の農民解放が実施されたが,社会的・経済的伝統のなかでいまだ封建的風潮は払拭されず,結果的には農奴制は残存することになった。土地は依然として地主による所有が大部分であり,なおかつ[3]の自由意志による協定のために,それまで農民が保有していた土地すらも地主が取り上げてしまうようになった。そのような土地は“切取地”と呼ばれた。つまり,農民は土地を失い,土地を所有するためには買戻しをしなければならなかったのである。アレクサンドル2世の農民解放は,農奴を人格的に解放したとはいえようが,結局は農民を土地から離れさせる事態を招来させたのである。農民は離村し都市労働者へと変化し,それはロシアの資本主義を発展させる力となった。そして,資本主義の貨幣経済は農民層の分解をもたらしめた。アレクサンドル2世によって実現された農民解放は,あくまで上からの“解放”であり,固定化してしまっていた農奴制を完全に廃止するまでにはいたらなかったために,ロシアにおける農業の資本主義化は,工業などに比して遅れることになった。ただ,この農民解放が農民の身分を封建的制度から解放しつつも,現実的には土地の買戻しといった深刻な矛盾を抱えていた事実は,やがてロシア革命における激しい農民運動を準備したといえる。1905年から始まる革命運動としての農民運動は,土地の買戻し金の帳消しなどを含むものであり,そうした農民運動はそのままロシア革命の農民運動につながっていった。

【ドイツの農民解放】ドイツではエルベ河以西の地方は,荘園制度の遺制としての隷属的な環境下にあったが,エルベ以東のスラブ出身が人口の大部分である地方の世襲的隷属制ないしは所領地隷制に比較すれば,農民層は貢納によるほかは土地や農場を領主に取り上げられることはなかった。しかし,ほとんどの農民は隷属状態にあり,農民解放は農民によって強く求められていたことは明らかである。フリードリッヒ=ヴィルヘルム1世(1713〜40)は,こうした農民の隷属の境遇を緩和するために法律による改革を実行しようとした。1718年には東プロシャの直轄領において,また1719年にはポンメルンの直轄領で体僕制度を廃止させた。これらの地域では,農民は以後直轄領農民としての地位を世襲化した。しかしながら,農民の移転の自由や貢租と賦役,さらには畜殺奉仕や婢僕奉公などは旧態依然であった。プロシア王フリートリッヒ2世は,これに対して時代の啓蒙思想の影響もあって,人間はみな平等であるとの理念のもとに,農民の解放と福祉に先王以上に関心を示した。フリードリッヒ2世は農民階級のために次のような処置を行った。[1]1763年に東プロシャやリタウエンの直轄領で,農民の子供たちに婢僕奉公を課することをやめさせて世襲的隷属制の変革をした。[2]農民の土地を没収することを禁じて,農村人口の減退を防いだ。[3]貴族領主たちの農民への不当な抑圧を防止させるために農民庇護法を公布した。[4]農民の子供に勅令によって就学させることを定めた。[5]国内の湿地帯を干拓し国土改良を大規模に進めた。このような農民階級への向上のためのプランは,さらにフリートリッヒ=ヴィルヘルム3世にも受け継がれた。フリートリッヒ=ヴィルヘルム3世は,フリートリッヒ2世が行えなかった農民に対する貢納や賦役の義務の廃止についての検討をなそうとしたが,解決をみないまま1806年にプロシャはナポレオン軍に侵入され屈する事態にいたった。ドイツの農民解放は,このナポレオンの影響と,プロシャの再起のためには市民と農民を国家の基盤としなければならないとの為政者の認識によって実現されたのである。すなわち,シュタイン=ハルデンベルクの改革立法がそれである。このプロシャの改革事業はフライヘル=フォン=シュタインによって考案された。王は世襲隷属制の全廃と,貴族・領主による土地の独占的所有を制限する法律を定めることに同意し,1807年10月9日にプロシャ全州に対する世襲隷属制の廃止を盛りこんだシュタインの改革を裁可した。改革の代表的な項目は次のようなものである。[1]土地売買・整理の自由。[2]所領地隷属制の廃止。[3]職業選択の自由。こうして農民は自分たちを長期にわたって拘束しつづけてきた世襲的隷属制から解放され,農民は市民になることもできるようになった。いうまでもなく,この農民解放令はプロシャ国内にきわめて大きな変動をもたらした。貴族階級や領主たちは,これまでの農業労働力を失うことになり,農民の身分を自由にすることは経営の不可能な所有地を増やすことにもつながり農民解放への不満は訴えるべくもなかった。1815年ごろからはこの貴族・領主の不満と,改革に対する反動から,農民にとって再び厳しい圧制の時代となった。1816年の新しい勅令は,賦役や負担から自由になりえるのは古い農場を所有していた農民だけであり,それ以外の農民はまた隷属状態を強いられる現実をもたらすものであった。領主の支配力に対して農民はなすすべがなかった。フリートリッヒ=ヴィルヘルム4世は1850年に法律を公布し,農民を救済しようとしたが,自力で経済的な農業経営を行えない農民の大多数は,そのまま領主に対する隷属状態に自らを置くほかはなかったのである。しかし,農民は家族とともに定住し,牧畜などを行うための牧場の権利を有しており,旧来の農民の悲惨な環境からは確実に解放されてはいたのであり,プロシャにおけるこうした一連の農民解放の現実は,ほかのドイツの国々に影響を与えた。1833年ごろにはほとんどのドイツの国々で(バイエルンやヴュルテンベルグでは1848年に農民解放が実施されるにいたった)農民解放は実現されたのである。やがて農民解放によって独立した小商品生産者となった中小農民は,ドイツが先進資本主義国の影響を受けながら急速な資本主義化を遂げていく過程のなかで分解せざるをえなくなっていくのである。また,19世紀後半からの経済的な恐慌は,ドイツの農民層を苦しめる結果となった。