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●農民一揆 のうみんいっき

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 農民が多数団結して為政者に要求をつきつける行動をいう。兵農分離が行われたあとの江戸時代の百姓一揆,江戸後期から幕末維新期の世直し一揆,明治初期の農民一揆がこれに入る。ただし中世の土一揆・国一揆・一向一揆などは入らない。

百姓一揆の諸形態】農民一揆の主軸は百姓一揆であり,両者は同義に用いられることも多い。本事典には別に一揆の項目も,世直し一揆の項目もあるので,ここでは百姓一揆について述べる。江戸期および明治初年の百姓一揆には次の6形態がある。蜂起・逃散(ちょうさん)・越訴(おっそ)・強訴(ごうそ)・愁訴・打ちこわしである。かつてはそのほかに不穏とか屯集などという用語の用いられたこともあったが,青木虹二『編年百姓一揆史料集成』(三一書房)で上記の6形態に整理されてから,これが妥当な見解とされるようになった。

 [1]蜂起 ことばの意味は,蜂が巣から飛び立つように,農民が一斉にむらがり立つことであるが,百姓一揆の形態分類として使う場合には次の二つの内容を意味する。一つは江戸初期の島原の乱にみられるような領主権力との対決をはっきり打ち出した一揆のことをさし,もう一つは後期にみられる打ちこわしのなかで,一国とか一藩全域に及ぶような規模の大きいものをさしている。

 [2]逃散 農民が,為政者への抗議の方法として,集団で定められた居住地を逃れ去ることをいう。生活苦や近隣不和などで,夜逃げのような形で個人的に行方をくらます欠落(かけおち)とは区別される。

 [3]越訴 定められた合法的な手続きを踏まず,直接権力者に訴えることをいい,直訴ともいった。名主・組頭などの村の有力者が,村民を代表して訴え出ることが多かったが,その場合には代表越訴といった。

 [4]強訴 多数の百姓が,団結の力によって領主側を圧倒し,強引に訴願内容を呑ませる形である。

 [5]愁訴 ことばの意味は,うれい嘆き訴えることである。合法と非合法のすれすれの形で,多数の農民が訴え出る形をいう。強訴にくらべ,人数も少なく数十人ないし数百人程度であり,表面的には神妙に願い出る形であるが,徒党を結ぶこと自身が違法とされていたので,それも禁令を破ることになるわけである。

 [6]打ちこわし 直接的には,領主に対して訴状を出したり要求事項を掲げるのではなく,特権をもって暴利を貪る富裕商人や,不当な役得を得ている村役人などの家宅を打ちこわすことである。強訴のために蜂起した農民群集が,城下への往復の途次で打ちこわしをかけたこともあるが,江戸後期になると領主への訴願をすることなく打ちこわしをかける例が多くなる。暴利や不正を取り締まるべき藩当局が,ときにその暴利や不正と気脈を通じていたり,またはすでに公正な統治能力を欠いていることを十分承知していた農民が,自らの手で不正を暴くべく,非常手段に出た形なのである。

【性格からの分類】以上は訴願形態から分類したものであるが,一揆のもつ性格・組織方法などを考慮しての分類も行われている。

 [1]土豪一揆 江戸初期の,幕藩体制確立の過程で,新しく乗り込んで来た領主の支配に反抗して,在地の土豪がおこした一揆をいう。まだ安定しない混乱期に,あわよくばみずからが領主たらんことをめざしておこしたものもあるし,新領主の権力の強大さは承知のうえで,それに一矢報いて既得権を確保しようと意図しておこしたものもあった。したがって中世の国一揆と性格的類似性をもっているので,初期一揆として,それ以降の百姓一揆と区別するむきもある。

 [2]惣百姓一揆 村落内の農民諸階層がすべて出動した一揆という意味である。江戸時代の村落には,庄屋(名主)・組頭・百姓代長百姓)の村役人層と,自作農を中心とする一般の平百姓,自小作以下の小前百姓,土地をもたない水呑と,幾階層にも分かれて農民が存在したのであるが,それらの農民が惣(総)動員された一揆ということである。指導者は当然のことながら村役人層がこれに当たった。近隣諸村との共闘組織もつくりやすいので,規模も大きくなり,したがって城下に整然と押し出して強訴する,という形が多かったのである。

 [3]全藩一揆 一つの藩領の全域から百姓が出動参加した一揆のことである。そのような大規模な一揆を組織することができるためには,各村々の惣百姓が参加しなければ不可能なことから,全藩一揆の内部組織をみれば,それは多く惣百姓一揆となっている。したがって,惣百姓一揆全藩一揆という形が多かったのであり,それを全藩惣百姓一揆と呼ぶ。

 [4]世直し一揆 一揆の性格が,封建支配体制の本質的な部分を否定し,農民にとって望ましい新しい世のなかの実現をめざして行われたものをいう。

百姓一揆の発生件数】このような諸形態をとった百姓一揆は,江戸時代を通じて総計何件おこっているか。この発生件数は昭和初年,京都大学経済学部教授黒正巌が「百姓一揆年代表」を作成して574件を計上してから,時代が移り,研究が進むにつれて増加してきた。同じく黒正巌が1937年(昭和12)に増補した「百姓一揆年代表」では1,240件となり,同じく1959年(昭和34)の「百姓一揆年表」では1,635件とした。それが1966年(昭和41)の青木虹二『百姓一揆の年次的研究』では,いっきょに2,809件にふえ,さらに同氏の1971年(昭和46)発行の『百姓一揆総合年表』(三一書房)では3,212件となった。しかしこの青木年表のなかには,同じ事件を重複して2カ所に記し,2件と数えたり,百姓一揆とはいえないものも混入しているので,正確な吟味を経た年表の作成が期待される。青木年表によってそれぞれの形態発生件数をみると1590年(天正18)〜1867年(慶応3)のあいだに,蜂起65件,強訴719件,越訴546件,愁訴496件,逃散229件,打ちこわし326件となっている(そのなかに不穏369件,形態不明その他306件が入っている)。

百姓一揆発生の時期的特色】江戸時代を通じてみると,百姓一揆の発生件数は,時代が下るにつれて多くなっているが,形態的には時期によって差がある。江戸初期に多いのは蜂起と逃散であり,ついで越訴の多い時期がくる。江戸中期には全藩惣百姓一揆強訴が多くみられ,江戸後期から末期にかけては打ちこわしが多発する。そして愁訴は全時代を通じてみられる形態である。このように時期によって形態的特色がみられるのは,それぞれの百姓一揆の形態が,それぞれの時期の社会・経済状態に対応する形でおこされているからである。たとえば逃散は幕藩体制が確立する前の社会・経済状況のなかでとくに有効な形態であり,越訴は確立過程に照応する要求貫徹の方法であり,全藩惣百姓一揆強訴は,確立した幕藩領主権力と農民階級とが正面から対決した姿ということができ,打ちこわしは幕藩体制の動揺期にみられる形態といえる。

百姓一揆の地域的特色】百姓一揆の発生件数を国別に集計し,上位11カ国を示すと表の通りである。現在の県名でいうと,長野県・福島県・愛媛県・岩手県・山形県・新潟県・埼玉県・秋田県・群馬県・岐阜県であって,圧倒的に中部地方・関東地方・東北地方に集中している。また全国的にみて,確かに百姓一揆は平野部よりは山間地に多くおこっている。しかし,それは経済的窮乏であるがゆえに一揆を多くおこした,ということを意味するものではない。むしろ山村でありながら,養蚕・製紙などの特産物をもち,交通の便もかなり良いという経済的深みのある地域に百姓一揆が多発しているといえるのである。

〔参考文献〕横山十四男『百姓一揆義民伝承』1977,教育社

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