●農奴解放令(ロシア) のうどかいほうれい
NIS諸国 ロシア連邦 AD1861 ロシア帝国
1861年2月19日(新暦3月3日),ロシア皇帝アレクサンドル2世が署名し,同3月5日に公布した農奴解放令。ロシアの農奴には地主領農奴・帝室領農奴・国有地農奴があったが,この法令により解放されたのは地主領農奴。帝室領農奴は1863年に,国有地農奴は1866年に解放された。1853〜56年のクリミア戦争の敗北により,ロシアの支配者層は,農奴制を基盤とする国家体制の行き詰りを痛感し,敗戦後ほぼ10年にわたり,ロシアを近代国民国家に改造するため,裁判・地方自治・軍制・財政などに関する一連の改革を行ったが,この農奴解放もその一環であった。【クリミア戦争】クリミア戦争敗北のなかでロシア絶対帝制の権威が揺ぎ,国内には自由と啓蒙の精神が渦を巻き,農奴制にたつ遅れたロシア社会改造の声が高まった。また,敗戦後の混乱のなかに農奴制の重圧にあえぐ農民の反乱が頻発したこと,農奴制の存在は国内市場を狭くし,自由労働者市場の形成を緩慢なものとしており,資本主義の発展を妨げていたこと,さらに,1846年イギリスが穀物法を廃止したことは,国際市場における穀価の低廉・安定化を要求し,ロシアでも農奴による遅れた農業経営から資本主義的経営への移行が必要とされ,農業経営自体の面からも農奴制廃止が望まれたこと,などがその原因である。
農奴解放については,1856年末以来一部上層官僚のあいだで秘密裡に審議され,1857年1月7日「農民問題秘密委員会」として発足,同年11月21日にロシア西部3県の総督ナジーモフ宛のアレクサンドル2世の詔勅において,全ロシア諸県の解放事業の具体案作成にあたって,その原型となる重要な組織綱領が示され,政府自身の発意による農奴解放の意向が公式に表明された。その後,1858年初め〜59年7月各県貴族委員会,1859年3月5日〜60年10月10日法典編さん委員会,同10月10日〜1861年1月14日総委員会,同1月28日〜2月17日国家評議会の審議をへて,2月19日皇帝が解放令に署名,3月5日公布された。
【内容】これは,ヨーロッパ-ロシアを対象とする「一般規定」と四つの「地方規定」から成り,一般規定は農民や僕婢に対する「農奴主的権利」を永久に廃絶し,農民に人格的自由を付与すること,農奴制による貢租・賦役などの負担を免除することを定めていた。一方,農地については地方規定に定められた。それは地区ごとの最高と最低の規準の範囲内で地主と農民との自由意思にもとづく協定により決定されることとした。こうして,約1,100万の地主農奴は無償で法的自由を得たが,分与地はきわめて小さく,解放前の農民の用益地の地主による切取りも盛んに行われ,その買戻金も高額なものであった。それは,地価を時価によって算定せず,高率の貢租を年6分の利率で資本に換算,この資本額が買戻価格とされたからである。政府は農民に代わってこの買戻金額の80%を年利6%の利付証券で支払い,農民はそれを49カ年賦で年6.5%の利子と償却金とを支払わねばならなかった。そのうえ,当時の社会的伝統や経済的条件は依然として農民を地主に依存せしめ,苛酷な雇役や分益小作を農民に負担させた。また,土地は農民の私有地として与えられたのではなく,ミールという村落共同体の共有地となり,定期的にミール構成員のあいだで土地の割当替えが行われたので,それは農民の自由経営心をそこない耕地を荒廃させ,また人口の増大とともに分与地をさらに小さくした。なお,ミールは元の地主に代わり行政的・司法的権力をもったので,農民は事実上ミールの農奴であった。農奴解放による農業の資本主義化は,富農による農産物収穫の増大をもたらし,また多額の余剰資本の撒布と自由労働者市場の形成・国内市場の拡大・保護政策に支えられ,ロシア資本主義も急速に発展したが,一般農民の貧窮は避け難く,かれらは土地に飢え,その不満は解消されず,その出稼ぎ人を大きな構成部分とする都市労働者の運動と結びつき,ロシア革命の前提を形成した。