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●農奴解放 のうどかいほう

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 農民が中世的農奴身分の法的・経済的束縛から解放されることをいう。

【内容】それは[1]人格的自由(職業・居住地の選択・結婚の自由など),[2]封建的諸負担(農奴身分に固有な人頭税・結婚税死亡税,また領主制に由来する貢税・職役・10分の1税など)の廃止を具体的に内容とする。また領主制諸負担の廃止とともに,農民はその保有地に対する完全な所有権を獲得するのである。なお法的に狭義の農奴解放は[1]の過程をさし,これは西ヨーロッパでは古典荘園の解体に伴い,領主が解放金と引き替えに解放状を発行する形で12,13世紀から始まったが,農奴制の遺制はそののちも残り,農奴解放は最終的には18〜19世紀の農制改革のなかで,[1][2]を合わせた形で行われた。これが広義の農奴解放,あるいは農民解放といわれるものである。この農奴解放は,農奴制が強固に残存した国,とくにエルベ川以東のプロイセンや東ヨーロッパ諸国においては国家の包括的立法によって行われたが,その完了には長い年月を要した。他方農奴制が早期に実体を失っていたイギリスでは,農奴解放のための特別な立法はなされていない。

【実施】ヨーロッパ大陸における最初の包括的農奴解放立法は1761〜71年のサヴォイアにおいてみられる。ついでフランスが,1789年以降のフランス革命の過程で最も徹底的な農奴解放を行った。ここではまず1789年8月4日,国民議会の「封建制」廃止の決議により,農奴制およびそれに由来する諸負担が無償で廃止され,さらに1793年7月17日の法律によってすべての領主制諸負担が無償で廃止された。すべての負担の無償廃止はほかの国にはみられない。これは革命との関連で理解される例外的事例である。ドイツでもすでに18世紀に農民保護のため,あるいは重農主義思想の影響を受けていくつかの国で農奴制廃止の試みが行われているが(1777年プロイセン,1781年オーストリア,1783年バーデン),農奴解放が本格的に行われたのは19世紀に入ってからである。それはプロイセンではシュタイン・ハルデンベルクの改革によって行われた。まず1807年の「十月勅令」によって農奴制が廃止され,農奴は人格の自由を認められた。ついで1811〜16年の法令により,農民はその保有地の3分の1から2分の1を領主に割譲することによって,領主制の諸負担から解放されることになった。同じころ南ドイツ諸国でも農奴解放が始まり(1808年バイエルン,1817年ヴュルテンベルク),1830年のフランスの七月革命の影響を受けて北ドイツ諸国(クールヘッセン・ザクセン・ハノーファーなど)でも1831〜33年に包括的な農奴解放立法が出されている。しかしこれらはいずれも解放を強制するものではなく,未解放の農民も多く残った。ドイツ諸国の農奴解放は,1848年の三月革命によって初めて完了するのである。プロイセンの場合,1850年の法律が土地割譲による補償方式を金納方式に改め,以後農民は領主制の諸負担から解放される代わりに,最高56年に及ぶ補償金の年賦支払いを義務づけられたのである。ほかの国でもおおむね同様に,農奴制に由来する諸負担は無償で,しかし領主制関係の諸負担は有償で廃止されている。東ヨーロッパ諸国では,1853〜54年にハンガリーで,1861年にロシアで,1864年にルーマニアで農奴解放が行われている。

【結果】農奴解放によって農民は人格的自由を得ることができたが,封建的諸負担から解放されるための土地割譲や補償金の支払いによってかえって経済的に困窮し,土地を手放すことになった農民も多い。他方,領主は土地や金で補償され,封建的領主制による領地経営を農業労働者を雇用しての資本主義的農場経営に切り替えることができた。農奴解放後,農村の下層人口が急増するが,これは農業・工業労働者の予備軍となるものであった。農奴解放は,資本主義経済社会の発展のための最も根幹的改革であったといえる。