●農地立法 のうちりっぽう
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耕作の対象となる土地についての所有権・利用権・処分権・管理権などに関する法令。日本の農地立法の歴史は古代の班田収授法,中世の荘園制,近世の太閤検地と徳川検地,そして近代の地租改正と農地改革という土地制度の変革と密接な関連がある。【古代・中世】日本の農地立法の歴史は645年(大化1)を画期として成立した律令制国家に始まる。国家体制が中国で発達した法体系の律令にならって整備され,律令制国家の基礎構造が班田収授法の土地制度に置かれ,天皇を中心とした統一的な土地・人民の支配方式を完成させたのである。改新政府は翌年に「改新の詔」四カ条を発布し,第1条は皇室や豪族による私地私民の廃止,第2条は中央集権的な地方行政組織の設立,第3条は戸籍・計帳と班田収授法にもとづく公地公民制の実施,第4条は統一的税制の確定という内容である。班田収授法はさらに690年(朱鳥4)飛鳥浄御原令をえて701年(大宝1)大宝律令によって整備された。国家の支配下にある土地が一定の基準で農民に給付された口分田は6年に一度作成された戸籍で配分されたのである。しかし,口分田の配分はほぼ9世紀末には廃止されるに至った。班田収授法の解体をうながした主要因は723年(養老7)三世一身法,さらに743年(天平15)墾田永年私財法であった。貴族・寺社・有力豪族たちが国家の承認のもとで合法的に広大な未墾地を開拓したり,既耕地の寄進・買得によって農地を集積し,大規模な私的土地所有である荘園を発生させたのである。荘園の増加に対して902年(延喜2)以来しばしば荘園整理令が発布されたものの効果は期待できなかった。鎌倉幕府の成立による武家社会の登場でも荘園制を否定することはできず,荘園領主との土地紛争では地頭請・下地中分といった解決策がとられた。南北朝時代から室町時代にかけてはようやく守護大名の荘園侵略が活発となり,守護請あるいは半済法として処置され,他方では中小名主層による百姓請も展開して荘園制の解体が急速に早まったのである。
【近世】荘園制の解体の時期については多くの異説があるが,最終的な消滅は太閤検地においてである。近世の土地制度は太閤検地とそれにつづく徳川初期検地によって成立した石高制を特質としている。検地の実施にあたって検地施行規則とも呼ぶべき検地役人の心構えから検地の方法や基準などをまとめた検地条目が発布された。太閤検地において検地条目の形式と内容が整備してくるのは1589年(天正17)美濃国検地の「検地御掟条令」5カ条である。なお,太閤検地条目はその後数回発布され,若干検地基準の変更が行われている。徳川幕府の検地条目は1649年(慶安2)を上限として1726年(享保11)まで8回の発布が確認できる。慶安検地条目は全27カ条からなる詳細なもので徳川幕府の基本的な検地方針をうかがうことができる。また,徳川幕府の最後の検地条目は享保の改革における新田政策の一環として発布された新田検地条目32カ条である。近世における農地立法の最も基本的なものとして田畑永代売買禁止令をあげることができる。田畑永代売買禁止令は1643年(寛永20)に発布されたもので,田畑の永代売買は禁止するが質権に設定することは許可するという内容をもつ法令であり,幕藩体制社会の基盤である小農体制の維持と年貢収奪の確保を意図した農地法令である。近世中期以降には質入・質取行為による土地移動が急増し,質地紛争が多発するようになる。幕府はその解決策として1695年(元禄8)質地取扱いに関する12カ条の覚を発布し,さらに享保期には質入地請返し請求権の有効期間の制限や請求権者の資格制限を行い,田畑永代売買禁止令の空洞化を進めたのである。1722年突然に質流れ地の防止を目的とした流地禁止令が発布されたが,翌年にはすぐ撤廃され,1744年(延享1)田畑永代売買の罰則改正を行い,田畑永代売買禁止令は事実上撤回したも同様となった。田畑永代売買禁止令とならぶ農地立法に年貢負担農民の維持を目的とした分地制限令がある。分地制限令は1673年が初見で,さらに1721年には10石1町歩という小農民の経営規模が設定され,それ以下の田畑の分地を禁止した。分地制限令の発布は不用意な開発を防ぐための1666年(寛文6)山川掟と軌を同じくしており,新田重視から本田畑中心主義農政への転換を背景にしているのである。本田畑に米麦などの主穀以外の作付を制限したものが作付制限令あるいは田畑勝手作禁止令と呼ばれる。初出の作物制限令は1643年(寛永20)の土民仕置覚にみられる煙草作の禁止であり,以後にも本田畑への木綿・菜種・桑・薬草などの栽培を禁止または制限を加えている。しかし,諸藩は領内の特産物生産の奨励による専売制の実施を行い,農民側も換金作物を積極的に作付するようになり,作付制限令は骨抜きにされた。
【近代】明治維新政府は先進資本主義諸国の東アジア進出に対して殖産興業・富国強兵と実現するには国家財政の整備が急務とされ,他方では幕末期に事実上形成されていた地主・小作関係の法制的容認が課題となった。近代的税制の確立と土地制度の変革をめざした地租改正にほかならない。維新政府は地租改正実施の前提として1871年(明治4)に田畑勝手作許可,翌年に土地永代売買解禁などの旧来の農民所持地に賦課されていた封建的諸制限を撤廃し,1873年に地租改正条例を発布した。戦前日本資本主義の基底をなしていた寄生地主制は地租改正を契機に松方デフレ・地租増徴などによって拡大し,1898年の小作地率が45.5%に達し,各地に50町歩以上の大地主が登場した。しかし,寄生地主制は第一次世界大戦を画期として小作争議の激発・米騒動・農業恐慌などによってしだいに衰退の途をあゆみはじめたのである。とりわけ小作争議の要求が小作料減免という経済問題から耕作権の確立をめざした土地問題へと転換した。こうした寄生地主制の危機に対応して打ち出されたのが小作立法の制定と自作農創設政策である。小作立法は1924年(大正13)に小作調停法として制定された。その内容は小作料と小作関係の争議を小作調停委員会・裁判所の調停・勧告によって円満な解決を図ろうというものである。しかし,小作調停法は寄生地主制の存続を前提にしており,地主の土地取り上げも阻止しえず,小作制度の不備を法的に是正するという当初の目的が達成されたわけではなかった。自作農創設政策は,小作立法が地主の権利を若干侵害するものと考えられていたのに対し,農村の中核となる自作農の維持・育成を目的としたために自作農創設事業として実施された。しかし,自作農創設事業も地主の土地売り逃げを助長する側面をもっており,寄生地主制を全面的に否定するものではなかった。小作立法と自作農創設政策が一体化して法制化されたのが1938年(昭和13)の農地調整法である。農地調整法は耕作者の地位の安定と農業生産力の増進という目的をもち,農地の買取・管理・自作農創設に要する土地取得をはじめ小作関係と農地利用上の調停を規定したものである。そして,第二次世界大戦のもとでは戦時農地立法として小作料統制令・臨時農地価格令が施行され,戦時経済の一環として農業生産の維持と物価統制をめざしたのである。敗戦後の農地改革は戦前の寄生地主制を撤廃したが,まず日本政府の手で口火がつけられた。それは1945年議会に提出された農地調整法改正案であり,第一時農地改革といわれる。しかし,占領軍は第一次農地改革案を承認せず,日本政府に土地改革のイギリス案を勧告し,翌年に自作農創設特別措置法と改正農地調整法を公布した。これが第二次農地改革である。そして,農地改革の成果を維持するために施行されたのが1952年の農地法である。農地法の理念は耕作する者が農地を所有するという自作農体制の維持に主眼が置かれている。農地法は戦後日本農業における農地政策の基本法として現在に至っている。
〔参考文献〕小倉武一『土地立法の史的考察』1951,農業総合研究所
竹内理三編『土地制度史 I』1973,山川出版社
北島正元編『土地制度史 II』1975,山川出版社