●農地解放 のうちかいほう
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個人と国家を問わず農地の所有権を実際耕作者に無償ないし低価格で移転する行為をさすが,ここでは日本の農地改革(1947〜50,昭和22〜25)を頂点とする寄生地主制の変貌と解体の過程。【寄生地主制の危機】1900年代初頭に確立した寄生地主制は高率現物小作料と家父長的生産関係によって前近代的構造をもつとともに小作料の資本転化・低賃金労働力の給源として日本資本主義発展の有力な環を構成していた。しかし地主制による停滞的農業生産力と工業生産力との矛盾は資本主義の発展につれて農業危機となって現れた。米騒動につづき1920年代から高揚した労働争議・小作争議は日本資本主義そのものの政治的危機にまで高まった。
【個人的農地解放】地主団体は政府に救農対策を働きかける一方,土地会社や集団経営によって危機を回避しようとしたが,なかには農地を解放する動きもでてきた。とくに文学者有島武郎が1921年(大正10)北海道の農場400町歩の無償解放を決行したことは地主層に衝撃を与え,1923年にかけて静岡・埼玉・愛知の地主に小作地の年賦分譲計画や土地国有運動が現れた。しかしこれらの動きは全般的風潮とはならず地主は政府の労農運動抑圧政策を背景に1924年ごろから反撃に移り,立毛差押え・土地取上げが盛行し紛争は耕作権をめぐって激化した。
【自作農創設維持政策】一方で政府も小作制度調査委員会(1920)以下,小作制度調査会・小作調査会を設置し小作制度検討にかかった。しかし日中戦争突入までにできた法令は争議調停を狙った小作調停法(1924)・自作農創設維持補助規則(1926)で小作法・小作組合法などはすべて流産した。自作農の転落防止と小作農の自作農化のために低利資金を融通する自作農創設維持政策は1945年までに4期にわたって立案された。それは地主の所有権譲渡に不介入という根本的欠陥をもち成果はとぼしかったが第4期計画はともかく戦後農地改革で創設された自作地面積に近く,戦時農業立法とともに直接生産者保護の方向はかなり強まった。4期の計画は次のとおりである。[1]1920〜25年,簡易生保積立金の低利貸付暫定措置,[2]1926年「補助規則」公布,25年間で約12万町歩の自作地創設,[3]1937年より25年間で約42万町歩,[4]1943年より25年間で開発農地とも約200万町歩。
【戦時統制の強化と寄生地主制の変貌】15年戦争の深刻化に伴い農地・食糧の統制が進み,小作料統制令(1939)・米穀管理規則(1940)など多くの農業統制法令がつくられ,これらによって耕作権はやや強化され農地価格や農地移動・転用が統制された。とくに1941年から二重米価制が採用されたことにより地主価格と生産者価格(地主価格+生産奨励金)の格差が拡大し,小作人は在村地主の自家飯米以外はすべて政府に供出することによって事実上小作料の一部は代金納となり率も低下した。1945年産米の最終価格は地主55円・生産者300円となった。これらの結果寄生地主制は変貌を余儀なくされた。
【農地改革】戦時経済の論理ともいえる寄生地主制の変貌は敗戦と占領軍の一連の民主化措置によって新局面に入った。戦後農林官僚が作成した農地改革案は所有権移転に強制譲渡を取り入れた画期的なものであった。それが閣議および議会で修正されたとき(第1次農地改革案)改革の主導権は占領軍に移った。1945年12月9日 GHQ の「農地改革についての覚書」は議会の改革阻止の動きを封じ「農地改革覚書案」にもとづいて1946年10月11日第2次農地改革案が成立した。国が低価格による所有権強制譲渡の主体となった農地改革はほぼ2年でその大半を終えた。その結果193万余町歩の小作人が解放され,改革前全耕地の45.9%237万町歩あった小作地は9.8%51万5,000町歩に減り,残存小作地の小作料低額金納化も実現した。1960年には残存小作地は36万町歩になり寄生地主制は基本的に解体された。
〔参考文献〕農地改革記録委員会『農地改革顛末概要』1951,農政調査会
大和田啓気『日本の農地改革』1981,日本経済新聞社
小倉武一『土地立法の史的考察』1951,農林省農業総合研究所