●農地改革 のうちかいかく
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第二次世界大戦の敗戦を画期に占領軍による労働民主化・財閥解体などとともに一連の日本社会の民主化政策として実施され,戦前日本資本主義の基底であった寄生地主制の撤廃を実現した土地制度の変革である。敗戦とともに激化した食糧危機・インフレーション・大量失業の発生などによって国民生活が極度に困窮し,経済危機の打開が当面の政策課題となったのである。また,農村においては村政の民主化,農業会の不正摘発,地主による土地取り上げ反対などを要求する農民運動が急速に展開した。国際世論もこうした事態に対して土地改革こそが日本民主化の最大条件であることを主張していた。【第一次農地改革】戦後の土地改革は内外の政治・経済情勢を背景として,まず日本政府によって口火がつけられたのである。その改革案は,幣原内閣の松村農相と農政局によって作成された「農地制度改革要項」を骨子とし,戦時中に発布された「農地調整法」を補充改正した「農地調整法案」であり,1945年(昭和20)12月4日の帝国議会に提出されたものである。日本政府は占領軍による農業・土地問題への発言に先手を打ち,政府自らの手で上からの土地改革を断行しようとしたものであった。しかし,国会の審議過程で地主勢力の猛烈な抵抗を受け,政府は結局のところ占領軍の「農地解放指令」の援護をうけ,同月28日に成立・公布させた。これが第一次農地改革である。その内容は,小作料の金納化,不在地主の全貸付地と平均5町歩以上の在対地主の貸付地を小作人の希望により強制的に譲渡させるものであったが,多くの地主的抜け道が残されており,不徹底な土地改革案であった。
【第二次農地改革】第一次農地改革案に対して内外の民主勢力から厳しい批判が展開された。1946年2月には日本農民組合が結成された。一方では,「農地制度改革要項」が発表されるとともに地主による土地取り上げや闇売買などが頻繁に横行するありさまであった。こうした事態を踏まえた占領軍は国内の政治事情を安定させ,さらに日本社会の共産主義化を阻止する目的をもって,日本の占領政策の一環として第二次農地改革案の導入を図ったのである。対日理事会において日本政府の第一次農地改革案に対する強い不満が表明され,結局第一次農地改革案は実施されずに廃案となったのである。第二次農地改革案はソ連案とその対案として提出されたイギリス案の両者である。前者は,[1]不在地主の土地全部と自作地3町歩以上(北海道10町歩),[2]収用地の低価交付,[3]1945年12月1日以降の地主による土地売買の効力否定,[4]土地改革を1948年まで完了することなどという内容である。後者は,[1]不耕作地主の小作地保有を平均1町歩,[2]土地保有限度を内地3町歩,北海道12町歩,[3]小作人の土地買入限度を1町歩,[4]土地改革の期間を3年間,[5]最高小作料の決定などという内容である。イギリス案が採択され,GHQの指導による第二次農地改革案が「農地改革覚書案」として日本政府に勧告されたのである。当時の日本政府は幣原内閣から吉田内閣へ移り,農地改革を担当する農相も松村謙三から和田博雄に交代していた。政府は第二次農地改革案と呼ばれる「自作農創設特別措置法案」と「農地調整法の再改正案」を,GHQの承認をうけ,1946年10月11日に議会を通過,21日に成立・公布した。そのおもな内容は,[1]不在地主の全貸付地を国家が地主から買収し,これを小作人に売渡す国家の強制買収方式の採用,[2]買収は1945年11月までさかのぼって行い,それ以後の地主による土地取り上げを一切禁止し,買収・売渡し価格は自作農収益価格とする,[3]農地移動については農地委員会・都道府県知事が厳重に統制する,[4]残存小作地の低率金納化の実現などであった。
【農地改革の実施と成果】農地改革の実施において実質的な役割をになったのが市町村の農地委員会である。市町村農地委員会は小作側代表5人,地主側代表二人,自作側代表3人の計10人から構成され,そのなかから委員長が選出され,さらに具体的な農地事務を担当した書記,農地委員の職務を補佐した部落補助員などによって運営された。また,市町村農地委員会に対応する上の機関として都道府県と中央の農地委員会が設置された。農地委員は小作・地主・自作という階層ごとに選挙によって選出された。第1回選挙は1万900余の市町村農地委員会で1946年末に,都道府県農地委員会は翌年2月に行われた。そして,第二次農地改革を担当した第2回選挙は1948年8月に市町村農地委員会が,翌年9月に都道府県農地委員会がそれぞれ実施された。第2回選挙の結果は小作・地主・自作ともに5割以上の農地委員が無投票で選出され,投票地域でも3割の農民が棄権者となっている。この数値だけをもって単純に農民の農地改革に対する関心の低さとみなすことはできない。農地委員は農民諸階層の利害代表者という性格のほかに部落(大字)代表として選出されたり,市町村段階における農民組合の強弱,あるいは地域の農業・農村構造の相違などが農地委員の選出に微妙な影響を与えたのである。市町村農地委員会の任務は解放の対象となる土地を調査し,買収計画をたて,さらに売渡計画にもとづいて農地改革の実務を遂行した。しかし,市町村農地委員会の性格しだいでは解放実績に差異の生じることもあった。農地改革は1947年3月に第1回農地買収が施行され,1952年10月まで農地の買収と売渡が継続された。市町村農地委員会によっては農地買収が大幅に遅れたり,都道府県農地委員会が市町村農地委員会の実務を代行した事例もあった。全国の農地解放の対象面積は買収地面積181万町歩と所管換土地面積18万6,000町歩をあわせた199万6,000町歩であり,農民に対して197万5,000町歩が売渡されたことになる。この解放土地面積は農地改革前総耕地面積の39%にあたる。これによって小作地率は農地改革前の45.9%から改革後には8.3%に激減した。さらに未墾地買収が135万町歩とその売渡75万町歩,牧野買収が45万町歩と売渡41万町歩も対象となった。なお,買収農地の平均反当価格は田662円,畑235円であり,この代金支払は一時払金と農地証券をもって行われ,後者は前者の4倍以上であった。また,残存小作地における小作料も低率金納化された。当初の小作料率は田では25%,畑では15%と最高額が規定されていたが,戦後の激しいインフレーションによって最終的には闇小作料を含めた実収小作料率は10%未満となったのである。このように,第二次農地改革は第一次農地改革案に比してより徹底した農地解放を実現させたことは疑いない。しかし,農地改革が売渡価格が低廉とはいえ有償方式に基づいており,解放の対象がほぼ農地に限定され,地主所有地の一部残存や広大な山林原野が未解放のまま放置されるなどの不十分な側面をもっていたことも事実である。
【農地改革の歴史的意義】昭和農業恐慌期には小作争議の全国的激化により寄生地主制が動揺をきたし,寄生地主制の支柱をなしていた小作農や自作農の没落防止と強化,地主の土地売り逃げを助成する自作農創設政策がとられた。農地改革も戦前から継続している農地政策の延長線上に位置づけられるとする見解がある。これに対して,農地改革によって創設された自作農と戦前の自作農とは歴史的性格を異にしており,農地改革はあくまでも占領軍という外の圧力によってのみ土地改革が可能であったとする見解で,農地改革の不連続説である。両説の検討はともかくとして,農地改革は戦前の寄生地主制を撤廃し,戦後日本農業の自作農体制を創出した土地変革であることは疑いのない歴史的事実である。また,農地改革後も戦前の日本農業構造の特質であった零細農耕制は依然として解決することなく,むしろ戦後における農業・農民問題の出発点となったのである。
〔参考文献〕東京大学社会科学研究所編『戦後改革6 農地改革』1975,東京大学出版会
北島正元編『土地制度史 II 』1975,山川出版社