●農村 のうそん
AD 農村とは農・林・漁業のため、人々がとり結んだ生産および生活のための集落である。林業においては山村、漁業では漁村という場合もあるが、一般にはそれらの業種の集落も農村といっている。『風土記』には“村”という表記が多数ある。人がムラがって定住する場所をムラといったという。古代における地方行政は、郷里制を基礎に置いていたが、生産と生活のためにとりむすんだ自然集団である“村”とは別個のものと考えられる。
【日本の農村と家屋の原始形態】713年(和銅6)に編述された『風土記』は、8世紀初頭の原始的日本農村の形成を記述している。『常陸国風土記』香島郡の部の香島社周辺の農村は東は鹿島灘、西は霞ケ浦の一部である北浦を望む位置で、稲作をする田が谷の一部をえらんでつくられ、畑が台地上にあり、人家は台地縁辺部につくり、そこに村が点在している。谷間には小川が流れ、その周辺の湧水を溜めて泉(井)がある。このように人は湧水のある地に住み、飲科水を得ていた。この水は生活用水ばかりでなく、村の女性は夏になると、泉で布をさらしたと記述されている。この布については『万葉集』(巻4・521)に、721年(養老5)藤原宇合大夫が常陸から離任する際に常陸の娘子が贈った歌として〈庭に立つ 麻手刈り干し布さらす 東女を忘れたまふな〉という歌がある。当時すでに常陸は麻の生産地で、麻の繊維を水で洗い漂白するのに、泉を利用したので、泉は生産用水としても重要であった。久慈郡においての人家は、海岸と陸地を結んだ交通の要所で、農産物と水産産物を交換した市場にも集まった。また『出雲風土記』では仁多郡の温泉の湧いたところに人家が密集したことをあげている。こうした村での人家の様子について山上憶良『貧窮問答歌』に、一般農民は小さなみすぼらしい掘立小屋で、屋内は土が露出し、その上に藁を敷いて生活しているという記述がある。このような居住形態は北関東や東北地方では江戸時代にも存在した。
【中世の農村】[1]下総猿島地方の農村 古代農村を利根川の下流でみたので、つぎに中世農村を利根川をすこしさかのぼった下総猿島で、猿島台地と利根川の氾濫低地によって構成されている若林周辺をみることにする。この地域の中世には、古代のような小さな家ではなく、大きな農家になると1町歩から2町歩もあり、これを「構」(かまえ)と呼んでいた。「構」は台地の縁辺部や緩斜面に位置し、台地上に畑があり、水田は沼の縁辺部に一部分と、沼に通ずる小さな谷に存在し、沼の大部分は近世の中期以降の新田である。猿島台地の一部を占める若林村には、開拓にあたった「草切16軒」の「構」の構造を物語る1376年(永和2)の文書がある。それによると小谷地や社寺を基準にして構の範囲を示している。そのなかに主家の屋敷と分家や下人・所従の小屋などがあったと思われる。 [2]羽前東置賜郡の農村の農業経営 中世の農家の構と耕地との関係は、どのようなものであろうか。それを具体的に示したのが図1である。この図は羽前東置賜郡の平家の農業経営の状況がよくわかる。屋敷は8反3畝で、屋敷内に馬屋と五つの蔵を有し、土居と幅3間の堀に囲まれた環濠居住をなし、当家は兵農分離以前においては、農業をしていても小領主(地頭)である。屋敷の門前に6戸と、少し離れて4戸の名子の家があり、周囲に4町歩に近い当家の手作地と、零細な名子の土地が散在しているから、当家の手作地が名子から提供された労働力によって経営されたのである。土地のうちには10戸の名子以外の者の名の付されたものがあり、いくぶんは自立した小百姓がいる。 [3]大和北葛城郡南郷の農村 今まで東日本の農村をみたのであるが、次に西日本の農村をみることにしよう。図2は大和北葛城郡南郷の環濠垣内(小集落)である。先述の羽前の例では小領主だけが環濠をめぐらしていた「領主的環濠」であり、これが東日本の特色であるのに対し、ここでは奥・市場・城の内・庄・北の5集落が環濠内にあり、これが「農民的環濠」といわれ、西日本先進地の特色である。その成立は14世紀以降で、荘園領主の農民支配が弱まり、在地に惣村制が強まった現象を背景として形成されたのである。環濠の目的は非常の際の防御用と、日常の灌漑用とを合わせもっていた。この灌漑水の共同利用によって村民の生産・生活が維持されたのである。 [4]惣村(郷村)の成立 大和南郷の環濠垣内が惣村の成立に伴って形成されたことを述べたので、惣村とはどういうものかをみよう。惣村は13世紀末から15世紀にかけて、畿内では領主化の過程をたどる上層名主(待衆)の主導により、荘園の枠をこえた農民結合が展開した。その結合は、かつての小百姓や名子などから小農に上昇し始めた脇百姓をも成員になし、村落規模での自治組織がとられ、このような地縁的共同体を惣村といった。惣村は村法である「惣掟」をもって用水や山林の管理、神事を始めとする村落生活や、惣有財産について律し、荘園領主が有した警察・裁判権を惣村がもち、村内の犯罪を検断し、領主に対し年貢減免闘争を通じて年貢を請負う「地下請」を行うようになった。そうして惣は村の規模をこえ、一荘または一郷を単位としてまとまる「惣郷」を形成し、農民闘争の基盤となった。惣村では普請や合戦などの出役を1軒から何人と家別に出役し、これを「公事屋」(役屋)といい名主層が負担した。
【近世の農村】[1]惣村の崩壊から近世農村へ 惣結合は15世紀の半ばから、世紀末の応仁・文明の乱を最盛とし、戦国大名の支配の拡大とともに、崩壊の歩みをつづけた。その原因は惣村における上層名主の領主化が進むにつれて、脇百姓とのあいだで階級対立を深め、上層名主は大名の被官となって侍身分を維持し、軍役を負担して所領の安堵を志向することとなった。その後において、戦国大名は権力の強化をはかるために、農村の直接的支配を志向し、在地の権力を否定して、侍衆を家臣団にくみ込み、知行武士にして城下町に強制移住させた。さらに大名が惣村に過重な収奪をしたので、惣有財産が解体し、また検断権をうばい、惣村の支配は家臣から代官をえらび統治させた。また同時に、商工業を城下町に集結し、無免地を与えたりして特権商人にして大名に従属させた。さらに知行武士になれなかった在惣地主の直轄地を名請地になし、村役人に任命して村を管理させた。戦国大名のこのような志向の完成された形が、太閤検地をへて、幕藩体制によって形成された近世城下町と、近世郷村(農村)であり、これによって町と在の分離、地域分業の成立を生じたのである。要するに、近世の村の創出は、それ以前の農民結合を領主側が解体をめざして、新しい人と土地関係を創出しようとした。これに対し農民側は惣村以来から家の結合体を形成し、山野・用水などの生産諸条件をそなえて領域的統一体を形成していた。そして在地の富を吸収すべく創出しようとした村と、村惣中の形をとって展開した農民の村とが、相互に規定・対抗し合いながら近世農村が形成された。[2]近世農村の景観 近世の農村は新田を除いて中世から存在していたので、変容をあまりとげないように思われがちだが、事実はそうではない。太閤検地によって、在地の小領主(名主)を排除し、土地所有者を大名領主に一元的に集中して、作合い(小作科)を否定し、直接生産者たる小農を自立せしめ、土地の所持権を保証したことが景観に作用した。その例として会津幕内村の屋敷図を図3にかかげた。この図で姓に黒丸表示(長方形印のため)の付いている家が近世初頭の検地名請人(初期本百姓)で、太線で囲んだ屋敷を保有し、それが11人である。(白丸カ)の印のある7人は1672年(寛文12)に分家して屋敷の分割を受けた者で、さらに●印の18人が1691年(元禄4)以降に分家し、合計で36人となった(分家は同時に土地の分割もうけた)。
〔参考文献〕木村礎『村の語る日本の歴史』1983、そしえて
