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●農耕文化 のうこうぶんか

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 人類が出現してから農耕文化をもつことができたのは,とるにたらぬ短い時代でしかない。それ以前は自ら耕作したのではなく,自生しているものを採集していたが,移動の民でしかなかった。

  農耕文化とは,生産技術面もさることながら,農耕をめぐる経済活動・生活儀礼・信仰・社会生活の様式・生産様式などを含む文化である。その成立以来,人類の進歩は急速なものとなった。その結果階層分化も生まれ,職業も成立し,都市も発展し,政治圏も拡大していった。

 農耕は食用植物の採集活動から発展した。当初男は狩猟をし,女は採集に従事していたが,やがてオーストラリアの原住民が野生ヤマイモの根の部分または茎部を黒土のなかにうめることによって,再び実ったのをみてそれを繰り返している。ロッキーを移動していたパュート族も,球根類の増殖を知ることができた。また北アメリカのスペリオル湖畔の一民族は,野生のイネの穂先を採集して,増殖する方法を発見している。それらによって,それまで移動していた民族がしだいに定着することになった。

【稲作農耕の始まり】縄文文化の終末期に,西日本に稲作農耕文化が到来した。300〜400年で東北地方北部に到達した。日本列島に住む人々は食糧採取から食糧生産段階へとすすんだ。

 稲作農耕文化は稲だけ入って来たと考えるのと,大量の稲作民族の移住・農耕文化民の移住など考えられる。農耕文化人は縄文文化人に農耕を教えたと思われる。とくに縄文文化晩期の土器には,弥生式土器の萌芽がみられる。籾の圧痕を照合できる。南朝鮮の支石墓文化が縄文晩期文化と融合し,雑穀の畑作農耕ともつながり,またこのころには,焼畑農耕も行われていたと考えられる。大陸系の諸石器も含まれ,金属器や支石墓とのつながりから大陸伝来が考えられる。

 日本への稲の伝来の経路には,三つ考えられる。[1]華北―朝鮮―日本,[2]揚子江下流―南朝鮮―九州,[3]沖縄―日本である。しかし弥生文化には朝鮮半島から北につながる文化もある。石庖丁が麦をつむのに用いられたのなら別であるが,稲穂をつむものとしたら北伝来も考えられる。南西諸島のことは考古学的にはまだ証明はない。

【弥生文化の成立】日本に稲作農耕をもたらした弥生文化が成立したのは,紀元前3世紀ごろである。[1]前期には北九州から東へむかい伊勢湾くらいまで,[2]中期は畿内中諸の櫛目文の時期,そして東北まで及ぶ。[3]後期には縄文晩期文化の中に深く浸透し,青森まで達している。後期の代表に登呂遺跡の水田跡等がある。発掘された水田耕地としては前期の板付遺跡がある。標高地10〜12m程度で三本の溝がみえる。最も大きいのは中世の流水溝である。この遺跡は縄文文化と半島農耕文化と弥生文化の複合・重量関係にある文化である。それに比べると岡山県津島遺跡は,2.2mにあり,低湿地にあるもの,登呂は地表面下2mにある。したがって湿沢地にあり,水田跡には南北に「水路」が通っている。

 弥生式時代水田は,北九州には廃絶型が多く,近畿には継続型が多い。全体としては廃絶・断続型が多い。これは畿内政権が耕地維持につとめて,それを継続に保障する権力として安定性をもっていたことによる。そして弥生水田に洪水田・湿田が多い。それが古墳水田になると,湿田から乾田へと変わっている。

 弥生水田は洪水田・湿田・半湿田なので大部分は人工灌漑を必要としない。排水のみは技術を必要とする。このようにみてくると,“農業学”的水田は排水,灌漑のないものから,排水のみ,やがて灌漑を中心とする水田(古墳水田)へと変化している。農具も後期になると多くなり,スキ・クワの木具を大切なものとする。

 以上のような経緯をふまえてみるとき,古墳水田となって乾田または灌漑を必要とする水田となる。これが稲作農耕の一般的型であり,安定型であった。