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●農耕 のうこう

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 農耕とは有用植物の栽培や動物の飼養により継続的に生産をあげるための活動であり,作物の組み合わせや作付順序,耕地の輪換方式などの空間的土地利用と,耕転を基礎とする時間的な作業体系を含む概念である。

【農耕の起源】人類が発生してから少なくとも300万年をへていることが確実とされているが,その大部分の期間を人類は狩猟と採集で生活していた。農耕が始まったのは今からおおよそ1万年前,最終氷河期が終わり世界の気候が温暖になり,植物や動物が急速に変化したころであった。草原が森林に変わり,旧石器時代の狩猟民にとって主要な食糧源であった大型草食獣が消えていった。適当に湿潤で温暖な地域が乾燥化し,砂漠となるところも現れ,海面の上昇で縮小した海岸平野も多かった。さまざまな環境変動のなかで,人類は新たな食糧源を求めてこれまでの生活様式を改めていかねばならなかった。そして世界のいくつかの限られた地域で,植物の栽培化と動物の家畜化が実現し,農耕が始まった。農耕の起源に関する伝統的な見解は古代ギリシア人の発展段階の概念で,狩猟と採集の第1段階から遊牧の段階に移り,最後に栽培植物による農耕が発明されたというものである。この説は中世を通じてヨーロッパで支持され,近代にいたったが,18世紀末から疑問視され始めた。そして,遊牧が必ずしも狩猟と作物栽培の中間段階ではなく,むしろ作物栽培以後に派生したという説が定着するようになった。

【農耕の起源地に関する諸説】農耕の起源地に関する重要な業績は,ロシアの農学者・作物学者であるバビロフとその一派によってなされた。彼らは世界各地の栽培植物の変種調査によって,最も変種数の多い地域を多様性中心地とし,その作物の発祥地とした。その後,この学説はイギリスの学者により継承され,発達した。そして,ダーリントンが考古学や人類学の成果も踏えて,近東を起源地とする「農耕一元説」として集大成した。これによるとティグリス・ユーフラテス川の“肥沃な三日月地帯”でコムギ・オオムギ・エンドウなどの栽培化と農耕が始まり,それが世界中に広まったというものである。また,ヴェルトやサウアーは,農耕の東南アジア一元説を主張している。文化地理学者のサウアーは,最初の農耕は栄養繁殖を行う植物が多く存在し,栄養繁殖に有利な自然条件の場所と考え,東南アジアを唯一の農耕の起源地とした。これに対して複数の農耕起源地を考えた研究者も少なくない。アメリカの民族学者マードックは,西アフリカのニジェール川上流のネグロイド系人種による雑穀を中心とする農耕,コーカソイド系人種による近東のムギ類を主力とする農耕,モンゴロイド系人種によるイモ類を中心とする東南アジアの農耕,そして新大陸の農耕という4大起源説を主張した。わが国の中尾佐助も遺伝育種学や栽培植物学の立場から,東南アジアの根菜農耕文化(サトウキビ・タロイモ・ヤムイモ・バナナ)・西アフリカのサバンナ農耕文化シコクビエ・ササゲ・ヒョウタン・ゴマ)・メソポタミアの地中海農耕文化(コムギ・オオムギ・エンドウ・ビート),そして新大陸農耕文化(ジャガイモ・菜豆・カボチャ・トウモロコシ)の四つの農耕文化の存在を示し,東南アジアの農耕文化が最も古いとした。農耕起源の一元説および多元説,さらに最も古い農耕の起源地が西南アジアなのか東南アジアなのかという議論にはいまだ決着がついていない。しかし,植物の栽培化や動物の家畜化に関しては,複数の中心地が存在したと考えられる。もっとも農耕起源の一元説を主張する学者は,1次的起源地は単一であり,他の起源地は栽培化の概念や基本的技術を受け取って発達した2次的中心地であると解釈している。

【栄養繁殖型農耕と種子農耕】農耕の起源を考える場合,栄養繁殖型農耕と種子農耕の二つに分けることができる。サウアーやゴーマンによると,栄養繁殖型農耕の最も古い起源地は東南アジアの半島部と島嶼であり,多くの重要な根菜類や樹木作物がこの地域に由来する。タロイモ・ヤムイモ・パンノキ・サゴヤシ・ココナツ・バナナなどである。家禽とブタもこの地域で独立して家畜化されたものである。農耕技術は原始的なものであったようで,石斧や火,そして掘棒を使用していた。最古の栄養繁殖型農耕の考古学上の遺物と考えられるものがタイで発見されており,それはおそらく前9000年までさかのぼるものである。前7000年ごろまでに東南アジアの半島部で植物が栽培化され,インド東部・中国南部・台湾・日本,そして太平洋の島々に農耕が伝播していった。明確な年代は不明であるが,マリアナ諸島へ前1500年ごろ,マルキーズ諸島に前120年ごろ,そしてハワイに前124年に伝わったと考えられる。南アメリカでは,現在のベネズエラの熱帯低地においてキャッサバをはじめヤムイモやヤウティアなどのイモ類,パイナップルやモモヤシなどの果樹の栽培化が,おそらく前7000年から前3000年までのあいだに行われた。ジャガイモはボリビアとペルーの4,000mに達するアンデスの高地で栽培され,ここではリャマが家畜化された。サツマイモの起源地はメキシコとされる。種子農耕の最も重要な起源地は,西南アジアの“肥沃な三日月地帯”である。ヨルダンのイェリコの遺跡では,前9500年までさかのぼることができる農耕の痕跡が発見されている。前6000年ごろまでに,コムギとオオムギの栽培とヤギやヒツジの飼育が,西イランから小アジア,そしてイスラエルとヨルダンにいたる広範囲に普及した。その後,前4000年ごろまでにエンドウ・レンズマメ・オリーブ・ブドウ・イチジクが栽培化された。ウシはヤギとヒツジよりも遅れて家畜化された。それでも,前6000年前後の農耕遺跡から家畜牛と考えられる骨が出土している。ハーンによると,ウシの家畜化は乳や肉といった経済的目的ではなく宗教儀礼のためであった。前5000年ごろから始まるハラフ期には,ティグリス・ユーフラテス川下流の沖積平野に農耕が拡大しはじめ,前4000年ごろになると,この地域の農耕文化が急速に発展した。エジプトに農耕が伝播したのも前4500年ごろとされる。初期の農民は収穫用の鎌と単純な鍬を使用していたが,前3000年ごろには木製のアルド犂(すき)が,メソポタミアでもエジプトでも知られるようになった。ヨーロッパに関しては,小アジアから前6000年ごろにギリシアにコムギとオオムギが伝わり,前4500年ごろにはライン川流域・ベルギー・オランダ・ポーランドに農耕が到達した。エンバクとライムギは西南アジア原産の雑草であったが,前4000年から前3000年のあいだに北西ヨーロッパで栽培化された。西方のインダス川流域では前3500年ごろクラブコムギを栽培し,ヒツジやヤギ・ウシを飼育する農耕社会が出現した。中国北部では前6000年ごろに黄河の上・中流域でアワを栽培する移動耕作が存在した。イヌ・ブタ・アヒルなどの家畜が飼育されていた。その後,仰韶(やんしゃお)文化が発達するが,そのころ西南アジアからコムギとオオムギが伝播した。この農耕文化はさらに東方に発展し,龍山文化となった。新大陸ではメキシコ南部で前6000年から5000年ごろにトウモロコシが,前3000年ごろまでにワタ・ソラマメ・カボチャ・アボガド・ヒョウタン・各種のトウガラシが栽培されるようになった。これとは別にペルー北部の海岸地域でも前5000年から前4000年ごろに,カボチャ・ソラマメ・トウガラシ・ワタなどが栽培化された。アメリカ大陸で家畜化された動物はリャマ・アルパカ・七面鳥にすぎず,その重要性も低かった。

【農耕の発展段階】農耕の発展過程についてハーンは農具の面から検討している。農耕が欠除する採集民の段階から,掘棒から発達した鍬を使用する耨耕(じょっこう)へ進み,さらに耨耕から犂耕に発展するという一元的な発達経路を考えた。しかし,鍬と犂は別系統の発展をとげたものであるとする二元論からの激しい反対を受けた。そして,鍬を使用し耨耕をさらに集約的に発達させた園芸の段階を犂耕と並行するものという考えが受け入れられるようになった。他方,テーアーやブリンクマンは土地利用の形態・構成およびその集約性から,原始穀草式から三圃(さんぽ)式・穀草式・輪栽式そして自由式にいたる発展過程をおもにヨーロッパの農耕を前提にして示した。“原始穀草式”においては,自然の林野のなかに畑地が開かれ,畑地では地力が枯渇するまで穀物が連作された。生産力が低下すると畑地を放棄して,他の林野を開墾して畑地とした。日本の焼畑と基本的に同じであり,ローマ時代のゲルマン人の農耕方式といわれる。“三圃式”になると,畑地と林野,および放牧地は明確に区分された。放牧地は永久草地であり,夏季には家畜が放牧され,また冬の飼料となる干草が採集された。畑地は三つの耕区に分けられ,それぞれ冬穀物(コムギまたはライムギ)と夏穀物(オオムギまたはエンバク)そして休閑地にあてられ,毎年これを交換させた。収穫後の畑地や休閑地も放牧に利用された。各耕作者はそれぞれの耕区に保有地をもっており,共同の農作業が多かった。強い共同体規制のもとに行われた農耕形態で,これを基盤として中世の封建社会における領主の荘園が成り立っていた。“穀草式”は三圃式が改良されたもので,16世紀から17世紀ごろに現れた。休閑地にカブや赤クローバ・ルーサン・ライグラスなどの牧草が栽培されるようになった。これによって,冬季における家畜の飼料不足が解消され,家畜の飼育頭数が増大したため畑地への厩肥の供給量が多くなり,生産力が向上した。共同体的規制のもとで自給的性格が強かった三圃式が,商品経済の影響によってしだいに変質してきた結果生じたものであり,近代的農業に発達する漸移的性格をもつものと考えられる。“輪栽式”は三圃式における耕作強制が完全に消滅し,自営的な農民が商品作物を栽培するようになってひろまった。12世紀以降,都市が急速に発達し,農産物の市場価格が上昇する一方,都市から灰や油粕,ゴミなどの肥料を入手することが可能になって,農作物が連作されるようになった。フランドルやブラバント地方で最初にこの方式が採用され,17世紀にはイギリス東部で,カブ・オオムギ・クローバー・コムギの4年輪作を行う“ノフオーク輸栽式”が確立した。この方式では,穀物のほかにクローバーなどの豆科植物と飼料カブが地力維持のために合理的に輪作された結果,厩舎で多くの家畜を飼うことができ,多量の厩肥の畑地への環元で穀物の生産量は急増した。その代償として労働投下量と資本投下量は多くなった。このように耕種農業と畜産が有機的に結びついた混合農業は,14世紀から19世紀にかけてしだいに形成されていった。“自由式”は肥料が外部から供給され,地力を維持するために規則的な作付方式を採用する必要がなくなり,市場の需要に対応して自由に農産物を生産するために発達した。自由式はもともとチューネンによって示された都市を中心とする模式的な農業地帯区分のうち,都市に最も近い第1圏の集約的園芸に相当するが,1850年以降のヨーロッパの工業化と都市化によって出現したさまざまの近代農業をこれに含ませることができよう。すなわち,ヨーロッパの混合農業が分化し,イギリスの大部分やフランス沿岸部・ベネルックス3国,北ドイツからバルト海沿岸にかけての地域では酪農が発達した。酪農地域の南や地中海地域の近くでは園芸農業が,ウクライナでは穀物農業が発達した。さらにヨーロッパの農業が新大陸に移植され,さまざまな商業的農業が発展した。

【日本の農耕】日本では縄文時代中期ごろには,狩猟や採集と並行してすでにアワやヒエ,豆類・根菜類を焼畑方式で栽培する農耕が始まっていたという考え方が定着しつつある。日本の農耕文化の基層をここに求める研究者も多い。しかし,日本で安定した農耕社会が形成されたのは水稲作の開始以降であり,灌漑施設を伴った水稲作がヨーロッパやアメリカ大陸の農耕と日本の農耕を分ける重要な要素である。水稲作が日本へ伝播したのは前300年ごろとされ,揚子江下流の江南地方から北九州へ直接,あるいは南朝鮮をへて伝わったとする説が有力である。これが弥生時代の始まりであった。北九州で開始された水稲作は,300年ごろ下北半島に達し,北海道を除く日本全土にひろまった。水田開発は弥生時代から古代まではおもに渓流や谷地の利用と小規模な溝渠の開さくによって進められ,さらに中小河川や溜池が利用された。中世には水田開発が停滞したが,水利施設の精巧化や用水配分の合理化が進んだ。中世末期から近世中期までが水田の大拡大期で,堤防築造技術の発達を背景に大河川流域の沖積平野での開田が,灌漑用水路網の整備によって実現した。主要水田地帯の造成とともに,灌漑施設の維持管理組織や近世村落,それに応じた農民層が形成された。近世の村落の共同体的性格は,用水配分をめぐる村落相互の対立によって強化された。それぞれの農民の耕作地が分散していたことや,田越し灌漑がふつうであったこと,水田ごとに独立した水利用が不可能であったことなどから,村落は個々の農民に対して厳しい規制力をもっていた。河川からの取水段階から水田にいたる水の流れによって,それぞれの村落が多層的に結びつけられる構造が形成され,これが日本の社会の一つの基本的性格となったと考えられる。日本の水稲作には地力維持のための土地利用方式がなく,湛水状態の水田で長年にわたる連作が行われてきた。そして零細農耕のために主食物である穀物の自給が急務で,家畜の飼料生産の余裕がなかった。そのため畜力によらず人力による鍬での農耕を基礎とした集約的園芸の性格が強かった。単位面積あたりの生産力が高く,狭い国土で多くの人口を養うことができた。

【農耕の諸類型と世界の農業地域】現在の地球上に多様に展開する農耕を系統的に整理して類型化する作業と,主要な類型の分布にもとづく農業地域区分の試みは,農耕の特質や地域差を理解するための重要な手段である。アメリカ合衆国の地理学者ダーウェント=ウィットルセイは,[1]作物と家畜の組み合わせ[2]作物を栽培し家畜を飼養するための方法,[3]労働・資本・組織の土地への投下度および生産量,[4]生産物の志向(自給用か換金用か),[5]家畜および農場の施設の五つの基準を設け,世界を13の農業地域に区分した。この研究が1936年に発表されてから多くの議論がなされ,それ以降の農業変化にもとづいて修正がなされたが,基本的には現在でも一般に受け入れられている。以下の九つの農耕類型とそれにもとづく農業地域は,グリッグがウィットルセイの研究成果を踏まえ取りあげたものである。“移動耕作”は森林のなかでとくに肥沃な区画の樹木や下生えを切り,それを焼き払うことによって開墾し,耕起をほとんどせずに播種するものである。最初の収穫後1年か2年は同じ場所が使用されるが,その後は土地が放棄され自然植生が繁るにまかせられる。そして他の場所が同じ方法で開かれる。主要な農具は山刀と鍬であり,家畜はほとんど飼われない。移動耕作は東南アジア・アフリカ中部・中央アメリカ,そして南アメリカのアマゾン川流域でみられ,その分布はほぼ熱帯に限られている。“アジアの水稲作”は,中国南部・南朝鮮・日本・台湾・東南アジア・南アジアの沖積平野において支配的な農耕である。アジアの水稲作の特質として,経営規模が小さく耕地が分散していること,家族労働のみに依存し自給的であること,高い人口密度を維持し労働集約的であること,家畜飼養が少ないことがあげられる。“遊牧”はアジア大陸の内陸部からアラビア半島をへて北アフリカのサハラ砂漠にいたる乾燥地帯に分布する。ヒツジ・ヤギ・ラクダ・ウシなどを自然の植生のみに依存して放牧する。牧草を栽培したり,貯蔵したりしないので,新しい放牧地と飲み水を求めて家畜群を移動させる。主に家畜のミルクと穀物を食料とし,肉や皮革は家畜が死んだときや儀式のために家畜を屠殺するさいに利用されるにすぎない。穀物は遊牧民自身が特定の季節に農作業に従事するか,部族の一部が農作業を行うか,それともオアシスの定住民と畜産物を交換することによって得られる。“地中海式農業”は温和で湿潤な冬と高温で乾燥した夏という気候条件をもつ地中海沿岸とカリフォルニア・アフリカ南端のケープ州,そしてオーストラリアの西部と南部に分布する。地中海沿岸では乾燥農法による粗放的なコムギ栽培とヒツジやヤギの放牧が農耕の中心であるが,その生産性が低いため,夏の旱魃(かんばつ)に耐える柑橘類やブドウなどの果樹,そしてオリーブやコルクガシなどの樹木作物,野菜からの収入で補っている。カリフォルニアでは1880年代にはコムギ栽培と家畜飼養が中心であったが,20世紀に入ってブドウ・果樹・野菜栽培が発達した。この背景には農業の機械化・協同組織化・農産物加工業の発展・灌漑の拡大・新しい栽培技術の導入などがあった。“混合農業”においては,一つの農場で作物と家畜の両方が生産されこの二つの経営部門は有機的に組み合わされているが,多くの場合畜産物の方が作物よりも所得源として重要である。作物として牧草・コムギ・エンバク・オオムギ・トウモロコシ・ジャガイモ・飼料用カブなど場所によってさまざまなものが栽培されるが,畜産物もウシ・ブタ・ニワトリの肉や酪農品さらにタマゴなど多様である。ヨーロッパ諸国・アメリカ東部と中部・アルゼンチンのパンパ・オーストラリア南東部に分布する。かつて東ヨーロッパやヨーロッパ・ロシアではおもに自給的混合農業が卓越するとされていたが,現在では商業化が進んでいる。“酪農業”はイギリス・西ヨーロッパ北部・北アメリカの5大湖周辺地域・ニュージーランド北部・オーストラリア南東部に分布する。専業化酪農場の特徴としては,混合農業よりも経営規模が小さいこと,労働集約的で高収益をあげていること,技術的水準が高く機械や設備が整っていること,牧草栽培を主体として土地利用を行っているが多くの場合乾草・穀物・濃厚飼料を購入しているなどがあげられる。“プランテーション”は都市人口の増大と生活水準の向上に伴う高級嗜好品と工業化による原料の需要の増大から,温帯で生産できない作物を熱帯や亜熱帯に求めてつくられた企業的農場である。現在では現地人に代わられているが,もともとプランテーションの管理者と技術者はヨーロッパ人であり,おもに現地人の肉体労働力に依存していた。そして生産物はヨーロッパや北アメリカに輸出され,資本はこれらの地域から投下された。生産物はサトウキビ・ゴム・綿花・コーヒー・タバコ・ジュート・バナナ・茶・ココナツ・油ヤシなどである。東南アジア・西インド諸島・中央アメリカ・東アフリカの高原・ギニア湾岸などに分布する。“企業的放牧”はおもに乾燥した新大陸の内陸部でみられる。北アメリカ西部の山岳部とメキシコ,南アメリカのパンパ・チャコ・パタゴニア,オーストラリアの内陸部さらに南アフリカの高原地域でみられる。経営規模は大きく,たとえばオーストラリアのヒツジの牧場の平均面積は8,000ha,カナダのウシの牧場の平均は4,000ha,最大のものは2万haに達する。牛肉や羊毛の生産に特化しており,飼料はほとんど自然の草原に依存している。気候の変化や価格変動に大きく左右される。“商業的穀物栽培”はウクライナや西シベリアにかけての地域や北アメリカのプレーリー・アルゼンチンの潤温パンパなどに分布する。半乾燥地域と湿潤地域の中間の大陸内陸部に展開し,コムギ栽培が中心である。最近ではオオムギ・ダイズ・アマ・ナタネなども栽培されるようになってきた。農場の経営規模は大きく,機械化の程度も高く近代的な経営が行われているが,土地利用は粗放的であり収量も低い。降水量などの自然条件と価格変動に大きな影響をうけ,政府の農業政策に依存する傾向が強い。

〔参考文献〕中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』1966,岩波書店

D.B.グリッグ,飯沼二郎・山内豊二・宇佐美好文訳『世界農業の形成過程』1977,大明堂

市川健夫・山本正三・斎藤功編『日本のブナ帯文化』1984,朝倉書店