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●農具 のうぐ

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 農具とは農作業に使用するいっさいの器具を総称し,近代から普及した動力による農業機械を含まない。その製作は農業の出現する原始時代にはじまる。1960年(昭和35)ごろから急速に農業機械が普及したが現在でも,補助的用具として農村で使用されている。

【日本の農具の原型】日本の農具はすでに弥生時代に,木製の耕起用の打鍬や,泥土を攪拌する引鍬,または刃がいくつもついた叉鍬や,また土を攪拌したり,土を移動させたり,穴を掘ったりするいろいろの形の踏鋤(ふみすき)が製作されている。木製農具はさらに,畠の除草や土掘用のフグシや,土の表面を平にするエブリや,刈敷・野草などを田に踏みこむ「大足」や,湿地にはまりこまない履き物としての「田下駄」や,稲苗を配ったり,刈り取った稲を運ぶための「田舟」などがある。このように弥生時代に木製ではあるが,日本の農具の大部分の原型が形づくられていた。古代社会になると収穫用具の石包丁や木製の鍬が鉄製となり,8世紀には官田において,10世紀の後半から一般に,役畜にひかせる犁(すき)が出現する。

【近世における農具の改良】近世においては石高制によって年貢が米納となった。したがって農業生産は米に重点が置かれるとともに,農民食糧は麦や雑穀を主としたため近世初期の農業は穀作農業の色彩が強かった。技術の面では耕起用の鍬と収穫用の鎌が発展して種々に分化し,脱穀用の千歯扱きと調整用の土臼(とうす)が出現した。また作物の収量を高めるために,肥料の確保に努力が払われ,稲の品種も多様化した。以上あげた農業技術は一定の経営規模がなければ実現できないというものでなく,小農むきの技術であったので小農の自立を促進した。中世の西日本の名主経営では10世紀末から犁が使用されたが,近世の小農民の出現によって耕作規模が小さくなったので,犁の改良よりも小農むきの鍬の改良が進んだ。土質や作業に応じて各種の鍬が製作され,軟らかい砂地には薄くて刃先の幅が広く長いものを,石地や重粘土では厚くて幅がせまい角ばった形のものを使用した。初期には,鉄製の刃先に木製の風呂(ふろ)をはめこむ風呂鍬であったが,鍬身全部が鉄製の金鍬となり,畑の畝(うね)をつくる作切鍬や田の畦塗鍬などが生まれた。また土寄せ用の窓鍬や,刃が短く厚い開墾用の唐鍬や,細く長い根切鍬などが出現した。畑の除草には軽い草取鍬がつくられた。このように作業に応じた各種の鍬がつくられたので,労働の能率があがった。近世に初めて出現した田深耕用の備中鍬は1596〜1615年(慶長年間)常陸国府(現石岡市)の修験者鈴木平左衛門の発明による叉鍬の「万能鍬」に改良を施したもので,刃を厚く,長くして重くしたものであり,その年代はわからないが,文献には1748年(寛延1)に初めて出現する。鎌は稲刈鎌(刃が鋸状なので鋸鎌ともいう),除草用に除草鎌,草刈に草刈鎌,幼木の伐採には木鎌など,作業に応じて専門鎌が出現した。また鎌の刃を研ぐのに砥石(といし)が生産され,上野砥(群馬県)・凰来寺砥(愛知県)・深草砥(京都府)・伊予砥(愛媛県)などが著名であり,これによって鎌の性能を発揮して,作業能率を高めた。脱穀用具は古来から2本の細い竹のあいだに稲の穂首をはさんで,しごき落とす扱箸(こきはし)であったが,東日本では「鉄扱」という2本の細い鉄の棒を木の台に固定して穂首をはさむもの(『会津農書』『民間省要』)や,西日本では「大扱箸」といって扱箸よりも太く長い竹2本を,一方の端を縄で結び一人がそれをもち,ほかの一人が稲や麦をひとつかみずつ竹のあいだにはさんで,穂首をしごき切る。井原西鶴が『日本永代蔵』で〈古代は二人して穂先を扱けるに〉というのはこれである。扱箸がこのように改良されたが,何といってもセンセーショナルなのは「千歯扱き」である。千歯扱きは日本で発明されたもので,初めは竹の歯で麦を扱いていた(1681年ごろの『百姓伝記』)。1688年(元禄1)に前述の『日本永代蔵』に〈尖竹(とがりたけ)を並べ,これを後家倒しと名付く〉とあり,竹の歯である。竹の歯が鉄に変わり,稲を扱くようになったのは元禄年間で,和泉高石村の大工の発明といわれている(『日本輿地通志』畿内部)。千歯扱きの能率は当初は扱箸の2〜3倍であったが,その後の改良によって5倍にも達し,従来の扱箸作業に従事した婦女子の職場を奪ったことから西鶴が指摘しているように“後家倒し”の異名をもって呼ばれた。千歯扱き1丁が米1斗5升ぐらいに相当し,耐用年数5カ年ぐらいであるから,1年の消却が3升ほどなので価格が安く,能率が高く,二十数年のあいだに,次のような地方に伝播したことが知られている。1704〜10年(宝永年間)加賀。1720年(享保5)安芸。1723年(享保8)阿波。1727年(享保12)飛騨。1728年(享保13)丹波篠山藩。関東では米作率が低いためか,享保年間にまだ鉄扱きが使用されている(『民間省要』)。千歯扱きの出現は日本農業の一大革命であった。その第1は省力化によって麦の脱穀の労働のピークを崩して,畿内では集約的な綿作の面積を拡大させ(麦の脱穀と綿の除草と田植が時期的に重なった),第2には畿内ばかりでなく,他の地方でも裏作をするのに都合がよくなり(稲の脱穀・籾摺(もみす)りと麦蒔きが時期的に重なった),湿田の乾田化を促す起因となって,裏作面積を増大させた。第3には調整用具の土臼と組み合わせることによって,稲を完熟させ(長期間稲を刈らずにおいて)米を増収し,良質米を産することとなった。第4に後進地では親方に従属していた名子や被官を自立させる起因となった。調整用具の籾摺りは,初めは木臼であった。これは一人が綱を引いて用いたもの(綱臼)と,二人が対座して上臼にかけた縄を交互に引っぱって,半回転ずつ交互に逆回転させたもの(摺臼)とがあった。1624年(寛永1)ごろに中国人が長崎で土臼をつくってから普及しはじめ,これは木臼の3倍の能率があがった。しかし土臼は砕米(くだけまい)を生じる率が高かったから,千歯扱きのように全国に普及せず,東北や羽前の幕領では禁止している。完熟米を生じる西日本の平坦部に比較的普及し,東日本や西日本の山間部ではおそくまで木臼が使用された。また1684〜87年(貞享年間)に精選用具のセンゴクドウシ※注1※が江戸で発明され(『武江年表』),1688年(元禄1)には畿内で使用されている。唐箕(とうみ)の使用も畿内では1688年であり,丹波篠山藩へは1739年(元文4)に伝わっている。

【明治農法における牛馬耕】近世の農具は主として手労働にもとづく稲作農具の改良が進んだのであるが,明治になると犁による牛馬耕が展開をとげるのが特色である。牛馬耕をするには田の排水が自由にできる乾田状態を必須とする。1886年(明治19)当時270万町歩の田のうち乾田が25%ぐらいで,それも地域によって差があり,東北・関東・東海地方に湿田が多く,近畿・瀬戸内・四国・九州に乾田が多く,北陸・山陰がその中間である。乾田化の進んだ地域では,江戸時代から牛馬耕が行われていた。一般に使われていた犁は長床犁で,これには長い犁床がついて安定しているが,長い犁床がじゃまして深耕ができない。日本では生産力をあげるために多肥であったから,深耕しないと肥料が流亡する。その点では床のない無床犁が深耕できて有利であるが,これは不安定で使用に熟練を要するので一部の地方にしか使用されていなかった。とくに北九州では「抱持立犁」という無床犁があり,福岡県の林遠星は1883年(明治16)に勧農社なる私塾を設立して,塾生を試験の上で実業教師とし,各地に派遣してその普及につとめた。しかしながら操作が困難なので,あまり普及しなかった。それに改良を加えたのが,熊本県の大津末次郎や長野県の松山原造や三重県の高北新治郎である。

〔参考文献〕飯治・堀尾『農具』1976,法政大学出版局

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