●能・狂言 のう・きょうげん
アジア 日本 AD 【能】日本古典芸能の一つ。笛・大鼓・小鼓・太鼓の囃子に合わせ、謡と舞によって演ぜられる仮面劇。室町時代、将軍足利義満のころ、観阿弥(かんなみ)・世阿弥(ぜあみ)父子により大成した。江戸時代以前は「猿楽(さるがく)の能」「能」と呼ばれたが、明治期に入り、狂言を含めて「能楽」という呼称も用いられるようになった。奈良時代、唐から渡来した芸能に散楽(さんがく)があったが、これはやがて民間において、奇術や軽業を主とする芸能となったが、平安時代には滑稽な物真似芸を演ずるようになり、猿楽(さるがく・さるごう)と呼ばれた。鎌倉時代には歌舞劇としての猿楽の能が発生し、寺院の芸能である呪師(しゅし)や延年(えんねん)・声明(しょうみょう)などを吸収し、今様(いまよう)や白拍子の芸をもあわせて発達した。これらの芸能者は奉仕する寺社の保護を受けて座を組織し、近江猿楽・大和猿楽が栄えたが、うち大和猿楽の観阿弥清次(かんなみきよつぐ)のひきいる結崎座(ゆうさきざ)が人気を集めた。観阿弥はこのころ並行して栄えていた芸能田楽の名人一忠に学び、また大和の女曲舞(くせまい)の乙鶴(おとづる)の芸を摂取して猿楽の能に豊かさと新鮮味を加えた。1374年(応安7)京都今能野で演じた観阿弥とその子藤若丸(のちの世阿弥)の芸は将軍足利義満を感動させ、以後将軍の側近の同朋衆に加えられ能を大成していった。世阿弥は能の幽文化につとめ、現行曲の半ばに達する多数の作品を創作、また『花鏡(かきょう)』、『風姿花伝』など23余部の伝書を残した。以後室町幕府の式楽として扱われる一方、手猿楽(てさるがく)という素人の猿楽劇団も現れて民間にも広く浸透していった。桃山時代は豊臣秀吉が能を愛好し、装束や能舞台も完成、ついで徳川家康も能を保護し江戸時代には幕府の式楽として観世・金春(こんぱる)・宝生(ほうしょう)・金剛の4座と、元和年間(1621〜24)に喜多流を加えて幕府および諸大名から禄を与えられて、芸の伝承と形式化また演技の練磨につとめた。明治維新による幕府の崩壊により能は一時廃絶の危機に直面したが、公卿・貴族・新興財閥の支持や宝生九郎・梅若実などの努力により復興、現在日本の優れた古典芸能との認識のもとに、内外の多くの人々の支持を受けている。
能の作品は現行曲として230曲前後ある。構成上大別すると、現在能と夢幻能とに分けられる。現在能はシテ(主人公)・ワキも現実世界の人間が登場するもの。夢幻能は旅僧に里人がその土地のいわれを語り、自分が実はその伝説の主人公であることを告げ回向を願って消え、のちに昔の姿で現れ生前のことを語りつつ舞うといった筋のものである。また場面を1場で構成するものを単式能、2場面にわたるものを複式能とする分けかたもある。しかしふつうシテの性格から神・男・女・狂・鬼の5種に分け、これを江戸時代の上演形式によって、脇能・二番目・三番目・四番目・切(尾)能(きりのう)の五番立とする。脇能は神事能で神能物ともいい、神社の縁起や和歌を題材とする。二番目物は男能で修羅能ともいい、武士の亡霊が旅僧に戦いや戦死の模様と修羅の苦患を語り、僧の回向により成仏するという筋で、多く『平家物語』や『源平盛衰記』に材を得ている。三番目物は女能で鬘能といい、最も抒情的で幽玄の趣に富み、『源氏物語』や『伊勢物語』に材をとり、恋の妄執を語らせるものが多い。四巻目は現在物・狂乱物・執心物で、現存する男性を主人公としたもの、子供に対する愛着心や恋人への恋慕から狂乱となるもの、亡霊や化身がこの世に執着するものなど。切能は番組の最後の曲で、鬼畜や龍神の類が主人公として活躍する。能の舞台は4本の角柱に囲まれた3間(約6m)四方の板敷で、これに入母屋造り(いりもやづくり)の破風(はふ)をもった屋根がかかる。ここが演技の中心の場所。正面の奥は後座(あとざ)で囃子方が並び、そのうしろは鏡板(かがみいた)という老松を描いた羽目板。正面左手には長い廊下があり、これを橋懸り(はしがかり)と呼ぶが、これは登退場する通路で、そのつきあたりが鏡の間で役者が出場を待つ場所。その奥が楽屋となる。正面右側の勾欄のついた部分は地謠座(じうたいざ)と呼び、ここが地謠が並ぶ場所である。舞台の前は砂利を敷いた白洲(しらす)で、橋懸りに沿って松が3本植えられており、前方から一の松・二の松・三の松と呼び、能舞台の優れた点景ともなり、演技の際の目標ともなっている。
【狂言】日本古典芸能の一つ。能狂言または能の狂言ともいい、また能とともに能楽と総称される。猿楽(さるがく)本来の滑稽な物真似的要素が発展して、室町時代に主として科(しぐさ)と白(せりふ)による喜劇として成立した。能とともに能舞台で演ぜられる。狂言という語は本来漢語で、道理にはずれた言語の意であったが、のちわざとふざけておもしろおかしくすることばや動作の意となり、南北朝時代(14世紀半ば)に芸能の一種を呼ぶ名称となった。今日残る記録では、1352年(正平7)の仁平寺の延年、また1446年(文安3)の田楽に狂言の名称がみえるのが古い。狂言は、奈良時代に中国から渡来した散楽(さんがく)中にあった滑稽的物真似的要素に発したもので、散楽が平安時代に猿楽と呼ばれるようになり、やがて歌舞劇としての能が発展すると同時に、科白(せりふ)劇である狂言が分化した。室町時代のはじめ観阿弥(かんなみ)・世阿弥(ぜあみ)の父子が能を大成したころ、能に付属した狂言師により独特の成長をとげたが、室町時代後期には大和猿楽の狂言方によって大蔵(おおくら)流が成立し、以後江戸時代初期に京都の狂言一座から鷺流と和泉流が成立、徳川幕府が能を武家の式楽として保護するに際し、大蔵・鷺は幕府の直属の流儀、また和泉は尾張徳川家と前田家に召抱えられて栄えた。明治維新により保護を失った狂言界は危機に直面した。しかしやがて復興し、鷺は大正期に滅びたが、大蔵・和泉の2流には芸統は保たれ、現在、喜劇としての独特の表現形式と芸術性が再認識され、内外の多くの支持者を得て発展している。狂言の内容は三番叟(さんばそう)および風流、間狂言(あいきょうげん)、本狂言の三つに大別される。三番叟および風流は、能の神聖な儀式である「翁」に登場する狂言方の役割で、三番叟は翁のあと五穀豊穣を祈って一人で舞うもので、前半の操(もみ)の段、後半黒式の尉面(じょうめん)をつける鈴の段とがある。風流は、きらびやかに着飾った多人数が登場するものだが、狂言の演技としては神聖視されており、ほとんど上演されていない。間狂言は能の進行中、中入などに登場するもので、一曲の主題を平易に説明したり、二人以上出て寸劇を演じたりする。本狂言は独立した筋をもつもので、狂言の中心をなす。ふつう二人か三人または数人で演ぜられるが、まれに十数人、あるいは一人という演目もある。主役をシテ、脇役をアドというが、アドが多い場合は、主アド・ワキアド、また小アドなどとも称している。そのほか多数一団となって登場するものを立衆(たちしゅう)、その先頭に立つものを立頭という。本狂言の多くはせりふにする対話を基礎としているが、ほかに狂言謠(きょうげんうたい)という歌謠的要素、また狂言小舞という舞踊的要素、また語(かたり)という物語的要素があり、ともに重要な役割を果たしている。今日、曲目は大蔵流で180番、和泉流254番を現行曲としているが、そのうち共通曲が174番ある。これらを大別すると、脇狂言、大名狂言、太郎冠者狂言(小名狂言)、聟・女(むこ・おんな)狂言、鬼山・伏(おに・やまぶし)狂言、出家座頭(しゅっけざとう)狂言、雑(ぞう)狂言に分類される。脇狂言は脇能にならったいいかたで、参詣人の前で神が福を授けたり、年貢を納めに上京した百姓が領主からほめられるもの、太郎冠者が都へ上って間違った品を求めて帰るなど、いずれも祝言性と楽しい笑いを語る曲となっている。大名狂言は愚かで無邪気な大名が登場し、権力と無知とのかもしだす面白みを主体とする。太郎冠者狂言は、狂言の代表的人物である太郎冠者(召使)が主役で、愚鈍・横着・臆病・酒好き、しかも無邪気で愛敬があり、それがまきおこす明るい笑いが主題となる。聟・女狂言は、聟取や聟入りなどで世なれぬ聟のひきおこすおかしみや夫婦間の問題をテーマとする。鬼・山伏狂言は、強いはずの山伏や鬼がじつはそうではなかったというおかしさ、出家座頭狂言は座頭や盲人を主役としたもの、雑狂言はいずれの分類にも入りにくい曲目である。
