●農業革命(西洋) のうぎょうかくめい
ヨーロッパ イタリア共和国 AD
農業の技術革新による農業生産力の飛躍的な発展をいうが、その結果は社会経済の全般にわたる変化をひきおこす。一般にヨーロッパ史上の農業革命は、11〜13世紀(中世の農業革命)と18世紀の著しい技術革新をさしている。技術的にみると、ヨーロッパの土壌は地味が乏しく、小麦の連作が困難であったので、畜力の活用や施肥・土地改良を通じて地味の回復をはかり、農業の集約化を行うことが重要な課題であった。
【中世】11〜13世紀は大開墾時代と呼ばれ、耕地が急速に拡大していった。それを支えたのは、鉄製農具の普及、とりわけ重量有輪犂の利用や、役畜の繋駕法の改良・馬の蹄鉄の使用などである。このため深耕が可能になり、平年作で小表の播種量と収穫量の比は1対4と安定した収穫が得られるようになった。また、小麦畑(秋畑)のほか、役畜の飼料用作物としての燕麦栽培(春畑)、地味の回復をはかる休閑地による三圃制が取り入れられ、これを順を追って輪作することで問題を解決した。このような新しいシステムは農民の密接な共同作業を必要とするので、社会的にもさまざまな変化がもたらされた。まず村落構造の面では、これまでの散村形態から集村形態への移行があり、今日の自治体の原型が形づくられたといわれる。また、三圃制を維持するために、村落共同体や農業慣行の確立が必要となり、開放耕地制度、囲い込みの禁止、休閑地や牧草地への共同放牧権があいついで慣習化された。この新しい村落を基盤に中世の領主制も展開したのである。その後、中世末期から近世初頭にかけて、北イタリアやフランドル地方などの先進地域では、カブやクローバーの栽培を組み込んだ新しい輪栽式農法(フランドル農法)が行われているが、三圃制に依拠した農業システムは近代まで基本的に変わることはなかった。もっとも南ヨーロッパでは、粗放な二圃制の農法がみられた。
【18世紀】18世紀に始まる農業革命は、伝統的な農業システムを止揚し、資本主義的農業を導入する契機となった。18世紀は好況の時代といわれ、人口の増大・価格の上昇・産業の各分野における活況が認められる。イギリスやフランスなどの先進地域では、穀物市況の好転により、農業部門への投資が高まり、いっそう集約的な農法への転換が求められていた。
イギリスのノーフォーク地方では、地主階級による新農法の研究が盛んに行われ、タウンゼントのカブ栽培、タルによる条播機の発明により、穀物に根菜類や牧草をまじえた四圃輪栽式が実施され、コークによってノーフォーク農法として各地にひろめられた。そのほか、刈取機や脱穀機などの農業機械も開発されて、イギリスは農業先進国としての地歩を固めたのである。小麦の播種量と収穫量の比は1対6以上に増大した。以上の技術革新は、土地制度の改革とも不可分に結びついていた。地主や農業経営者は、新農法により高率利潤をあげるべく土地の集積を企て、その手段として土地の囲い込み(エンクロージャー)を推進したのである。すでにイギリスでは16世紀に毛織物工業の発展に刺激された第1回の囲い込みがあった。そのありさまはトーマス=モアの『ユートピア』にも記述されているが、この囲い込みはもっぱら牧羊業のためのものであった。しかし、18世紀中葉に始まる第2回の囲い込みは、穀物の増産を企図する地主階級のイニシアティヴにもとづくものであり、一般に議会への請願をへて認可されたので議会エンクロージャーとも呼ばれる。その結果、農民層分解が促進されて、一方に富農層による大土地経営が展開するが、もう一方では共有地や共同放牧権など共同体的権利を失った中小農民は、なお村にとどまって農業労働者になるか、都市へと流出していった。こうした情況下に行われたのが、資本と賃労働にもとづく資本主義的農業経営であり、いわゆる地主-農業資本家(借地農業者)-農業労働者の3分割体制である。かくして、イギリスの農業革命は、伝統的な農村社会を解体させる転換点ともなったのである。そして、都市に流入した農民たちの安価な労働力を背景として、産業革命が推進された。食糧の増産は当時のイギリスにとって国民的課題といえるものであり、地主階級の利益は、その後の穀物法(1815)の布告によっても保護された。その反面、没落してゆく農民の蜂起は各地で頻発し、労働争議とならんで社会不安を促進していった。
【フランス】フランスでも北東部を中心に農業革命が展開している。イギリスの新農法に刺激されたフランスの重農主義者は次々と書物を著して新農法を紹介した。デュアメル=ド=モンソー『イギリス人、タル氏の原理にもとづく土地耕作論』(1750)・『農学原理』(1760)、ド=ラ=サル=ド=レタン『人工牧草地論』(1756)、パチュロ『土地改良論』(1758)。あまりにもイギリスを理想化した彼らの“農業熱”は“イギリス狂”とも皮肉られた。とくに重度主義者ケネーは『経済表』(1758)を著して、国富の源泉を農業に求め、積極的に大農場経営を提言した。事実、一部の貴族や大地主は新農法を実施し、カブ・サンフォワン・クローバーなどの栽培も増大している。政府(とくにベルタン財務総監期)も開墾や干拓・土地改良を奨励した。そのほか、土地の囲い込みについても、各地の高等法院の認可にもとづいて実施されている。しかし全体としてみると、フランスはイギリスよりも農民の土地に対する諸権利は強固であり、囲い込みが急速に進んだとは考えられない。重農主義者のなかでもダルジャンソンやマブリーは、大土地経営よりも小土地経営のほうがはるかに集約的な農業経営が可能であると主張していた。しかも、「休閑の恥辱」といわれた休閑地が消滅するのは19世紀を待たねばならない。結局、フランスでは、イギリス新農法を取り入れた資本主義的な大土地経営と小農民による零細な土地経営が並存するのであり、のちのフランス革命やナポレオン体制を支えた基盤も小土地所有農民にあったといわれる。
以上のように、18世紀の農業革命は、「好況の18世紀」と呼ばれる経済成長の原因であり、かつ結果であり、顕著な技術革新と結合して農業生産の資本主義的再編成をもたらした。それは伝統的な農村社会の解体や産業革命の勃興を含めて近代社会の前提をなすものである。
〔参考文献〕飯沼二郎『農業革命論』1967、未来社
椎名重明『イギリス産業革命期の農村構造』1962、御茶の水書房
楠井敏朗『イギリス農業革命史論』1969、弘文堂
マルク=ブロック、河野健二・飯沼二郎訳『フランス農村史の基本性格』1959、創文社