●農業 のうぎょう
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作物の栽培や家畜の飼育を行い,それをそのままあるいは加工して人間生活に利用すること。日本の農業は無畜農業・主穀農業・水田農業・多肥多労農業などを特質としているが,それは歴史的に形成されたものである。【古代・中世】日本における農耕の起源に関しては必ずしも定説化していない。山野河海での狩猟や漁撈の採取経済から焼畑をへて定着農耕に移行する段階の時期が論争となっているのである。縄文農耕論争である。近年の考古学の成果によって中期に緑豆・ヒョウタンなどの栽培種が確認され,晩期には西日本の遺跡から打製石器や収穫具とみられる石包丁をはじめ籾痕・玄米痕なども発掘されており,縄文時代における農業の存在を確認することができる。しかし,農業が日本社会の生業の中心となるのは弥生時代においてである。各地の弥生遺跡から水田跡・住居址などが発掘され,北九州に上陸した稲作がしだいに日本列島を東進したことを裏づけている。また,弥生遺跡からは稲のほかに大麦・粟・稗や豆類などの畑作物も出土している。当時の農業経営は数人の小家族が数個集まった複合大家族の共同経営が主流であった。しかし,古墳時代には鉄器の出現によって階層分化が進み,大和朝廷や有力豪族の屯倉・田荘では奴隷制大規模農業経営が行われ,鉄製農具の普及,池溝の開発による耕地の増加,田植や根刈りなどの農法も開始された。大化改新後(天武朝以降)の律令制社会では,全国の土地と人民が国家に所属するという公地公民制のもとで,口分田を配分された班田農民が郷戸・房戸という単位で小規模経営を行ったのである。しかし,723年(養老7)三世一身法,743年(天平15)墾田永年私財法を契機として国家的土地所有が崩壊し,大規模な私的土地所有の荘園制が展開するようになる。荘園制下では名主(みょうしゅ)の名田経営が農業経営の根幹となった。10世紀に成立した『延喜式』には畑作物として表・豆類のほかに大根・里芋など数多くの蔬菜が記録されている。中世の農業経営は荘園領主と武家との対立抗争を背景にした名田経営の分解過程として位置づけることができる。在地領主である名主の家族形態が家父長制的大家族からしだいに小家族制へと変化し,名田の分割による新興の中小名主層が登場するようになった。他方では名主に隷属していた所従・下人層が独立して名田の小作経営を行うようになる。南北朝の内乱以降は中小名主層の惣的結合にもとづく用水・入会利用が行われ,畿内の都市近郊農村では都市に供給する蔬菜の専作経営もみられ,用排水の調節による水田の乾田化と施肥技術の向上によって二毛作が普及するようになった。なお,中世農業では農業労働の一部を畜力に依存した田畑の犁耕体系を特質としている。
【近世】中世農業の停滞性を一気に打ち破ったのが戦国大名と徳川幕府であった。戦国末期から近世初頭にかけて日本の歴史では経験したことのないほどの大量の耕地造成が行われたのである。これまで農業生産の範囲外であった大河川中・下流域の沖積平野への進出が可能となり,大規模な新田開発がなされたのである。日本農業は弥生時代から水田稲作農業を基幹としており,用水の確保は最大の再生産条件であった。その意味で古代・中世は溜池灌漑の時代であり,近世・近代は河川灌漑の時代といえる。太閤検地とそれにつづく徳川初期検地が近世社会の基本原則である石高制を樹立した。石高制は支配−被支配という社会関係を米という単一の農作物で表現したものであり,近世社会は米遣い経済といわれる。近世農業の基礎構成員は地域差・階層差を含むものの封建小農である。封建小農は本百姓と呼ばれ,夫婦と子供からなる単婚小家族が居住のための家屋敷と耕作のためのおよそ10石1町歩の田畑をもち,耕作に必要な農具を所有している。また,本百姓の再生産は村落共同体を前提にしている。村落共同体は用水と草肥の確保に代表されるように本百姓相互の自然的結合にもとづいている。近世の農業労働は自家労働力を基本としていたが,田植・稲刈などの農繁期には五人組・親類・村落での共同労働あるいは結(ゆい)と呼ばれる労働力交換が行われた。また,近世農業の技術体系は水稲作における小農技術に代表される。小農技術の最も典型的なものは鉄製農具である鍬・鎌であり,とりわけ鍬は用途と土壌組成に応じて機能分化が進み,打鍬専用の備中鍬や鉄熊手・雁爪などの中耕除草用具を登場させた。農具の改良は脱穀調整過程にも及び,扱き箸から「後家倒し」と異名をとる千歯扱が開発され,籾ずり・選別用具として唐臼・唐箕・千石通しなども出現した。地力維持は山野から採取した刈敷が基本であり,草肥のほかにも人糞尿や厩肥などの自給肥料が投下された。また,中期以降には干鰯・油粕なども施肥されるようになり,施肥技術の飛躍的な発展がみられたのである。種籾の品種分化も著しく,早稲・中稲・晩稲の品種が他の栽培技術に多大な影響を与えた。水稲作における農具や栽培技術の改善は畑作物の分野にも応用されたのである。こうした一連の農業技術の改良が『農業全書』『百姓伝記』『会津農書』『耕稼春秋』などの農書を誕生させることになった。また,中期以降には畑作物の換金化が進み,適地適作の栽培原則に応じた特産物生産が行われ,綿・煙草・菜種・藍・紅花・紙・養蚕などの小商品生産が発展した。
【近代】明治維新政府は殖産興業の一環として勧農政策を推進し,農業の近代化・合理化をめざした西洋式農法の積極的な導入を意図した。しかし,西洋農法の大農主義は日本農業に定着せず,在来農法の長所を活用した小農技術の普及が老農によって行われ,土地利用の分散と零細農耕を基盤とした多肥多労の集約的農業経営を形成したのである。明治30年代に確立した明治農法は,耕地整理・用排水事業などの土地改良による乾田馬耕の普及,自給肥料から大豆粕・過燐酸などの金肥の多量施肥,老農による水稲品種の改良,ボルドー液・石油乳剤などによる病虫害防除などに代表される。幕末の安政開港は日本社会を鎖国から世界経済の網の目に組み込んたが,農業においても例外ではなく,作目構成に著しい変化を及ぼしたのである。幕末から近代にかけての綿作の衰退と養蚕の発展は好対照をなしている。第二次世界大戦前の日本資本主義は米と繭の経済構造といわれる。米は依然として国民の基幹食糧として生産され,繭は最大の外貨獲得の輸出品として位置づけられていた。また,寄生地主制は戦前の日本資本主義と表裏一体の関係にあった。寄生地主制は明治初年の地租改正を契機に松方デフレ・地租増徴などによって拡大し,小作人の地主に支払う高率現物小作料は出稼ぎや兼業収入をも含み,資本・賃労働関係の低賃金と相互規定的関係にあった。しかし,戦前の日本資本主義の基底をなしていた寄生地主制も小作争議の激発・米騒動の発生・農業恐慌の襲来・自作農創設事業などをへてしだいに衰退の道をあゆんだ。敗戦後の日本は極度の食糧不足をきたし,そのことも一要因となり,戦前の寄生地主制を否定した農地改革が施行されたのである。農地改革は大量の自作農を創出し,食糧増産に大きな寄与を行い,戦後日本農業の出発点となった。しかし,昭和30年代後半から開始された日本経済の高度成長は農業部門から大量の労働力と農地を吸収し,農家兼業の深化・農山村の過疎化現象など深刻な農業・農村問題を発生させたのである。一方農業内部では試験研究機関を中心とした農業技術の改善が急速に進み,農業の機械化・装置化・化学化がはかられ,稲作に代表されるように農業生産力の飛躍的な発展がみられたのである。しかし,日本列島に稲作が伝来してからいかなる時代でも米の増産が最大の政策課題であった歴史の幕が閉じ,昭和40年代後半には米の減反政策が実施されることになった。また,日本の畑作物を代表する大麦・小麦も急速に衰退した。現在の日本の食糧自給率は先進資本主義諸国のなかでも最も低い水準にあり,日本農業を取りまく内外の経済・社会環境は厳しいものがある。
〔参考文献〕三橋時雄『日本農業経営史の研究』1979,ミネルヴァ書房
暉峻衆三編『日本農業史』1981, 有斐閣
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