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●念仏踊 ねんぶつおどり

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 念仏踊あるいは踊念仏は,空也念仏・鉢叩・大念仏・六齋念仏などの名称で各地で呼ばれることもあるが,いずれも念仏や和讃の唱文を唱え,鉦や太鼓などではやしながら多くは輪になって踊ることである。空也・一遍などによって始められ念仏僧によって各地にひろめられたといわれているが,元来は古来の悪霊を追い払うための踊りが,浄土信仰の念仏の行と結びついたものであるとされる。したがって,古代より各地の村々で行われていた伝承的な民俗舞踊の流れの上に仏教的な理念が加えられたとみてもよい。旧仏教からは念仏踊は,むしろ仏教をおとしめるものだとの非難もあったが,中世以降は京都では鎮花祭と融合したりして代表的な民俗芸能へと発展していった。一遍上人絵詞などに伝えられる念仏踊は,都の人々などが集まる場所に屋台をつくって,そこでまず念仏僧が踊ってみせるという形であった。それがしだいに芸能化し興行化していくことになり,16世紀から17世紀には,鉦と黒塗笠をもって歌舞するようになり,願人坊踊・放下(ほうか)踊・みろく踊・けんばいなどさまざまな形になって全国各地に派生し発展していった。出雲の歌舞伎踊も念仏踊をもとにしたものである。

空也と念仏踊】空也は平安時代中期の僧で,浄土教を民間にひろめ念仏踊を民衆にすすめたといわれている。空也は若くして優婆塞(うばそく)となり修行をして20歳で出家,沙弥名を空也とした。空也は“南無阿弥陀仏”を唱えることで自らの布教をはじめ,民衆は空也のことを阿弥陀聖と呼んだ。念仏によって囚人の教化にあたったり,疫病が流行すると募財して観音像や梵天帝釈・四天王像をつくった。また,大般若経を書写して願をかけた。当時は念仏を唱える人は,村落などではまだ少なかった。子供や女たちなどはむしろ念仏を唱えることを忌むこともあったといわれる。しかし,空也がそうした村落の人々に念仏信仰を布教するようにすすめ,自らが念仏を唱えると人々はともに“南無阿弥陀仏”を唱えはじめたと伝えられる。仏の相好(そうこう)あるいは功徳(くどく)を念ずる観念の念仏から,称名念仏の教化につとめた空也にまつわる伝説は,六波羅蜜寺空也寺などにおいて語られたが,空也の念仏布教でとりわけ重要なものは念仏踊である。空也の念仏踊は,彼が日ごろから親しんでいた鹿が,平定盛という侍に射殺され,それを悲しんだ空也が,鹿の皮をかわごろもとし,その角を鹿杖(ろくじょう)として,殺生の業を悔いて改めた平定盛とともに念仏踊を始めたと伝えられている。空也は天台宗の僧であったが,この念仏踊によって,民衆のなかに念仏信仰をひろめていくことにつとめた。文字も読めず,仏教・教典の知識にすがることなどまったくかなわない貧しい民衆にとって,ひたすら念仏を唱えること,念仏踊という形のなかに宗教的な救いを求めることができるのは願ってもないことであった。空也によって念仏踊は各地にもたらされ,日本における民間宗教の一つとして発展し,念仏踊はさまざまな地方の民俗的伝統のなかで土地の芸能となっていった。空也は963年(応和3)に,大般若経の書写を成就して,賀茂河畔に供養したのちにそれからまもなく69歳ないし70歳で入滅したといわれている。

念仏講】念仏を修する信仰者たちの会合のことである。念仏講の講は,そもそも経論の講説のことであるといわれており,仁王講や法華八講などが代表的なものである。念仏を修し唱える人々の会合・結社は,平安中期以後に,称名念仏が民衆のなかに広く受け入れられるようになり,念仏踊などが行われるようになるころに多くつくられた。往生講・迎講と呼ばれる講などがひろがって行った。念仏信仰の普及とともに,こうした念仏講も数を増し,その種類もさまざまになり,浄土宗における別時念仏,あるいは真宗における報恩講なども念仏講の一種であるとされている。念仏講はやがて説教を聞き念仏を唱える集りから娯楽的・習俗的になった。