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●念仏 ねんぶつ

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 梵語の漢訳語で仏を憶念・思念するの意である。原始仏教では仏陀(釈迦)に対する追憶・帰依・礼拝などの行法の一つと考えられる。仏教徒の実践行である三念(念仏・念法・念僧)もしくは六念(三念に念戒・念施・念天を加える)の行の一つであった。のちにこの意味がだんだんにずれていき仏の理体(法身)を心に念じることになり,さらに仏の姿(色身)を心に観ずる,観念の念仏になった。観念の念仏は仏の全身や一部を具体的に頭の中に描くことで観想の念仏といわれるが,これがさらに浄土教などの発達により仏の名を唱える口称念仏が重視され,念仏というとこの口称念仏を意味するようになった。「南無阿弥陀仏」は,この浄土教の阿弥陀に対する口称念仏であるが,日本では念仏というと,この「南無阿弥陀仏」さらになまって「ナンマイダー」の語をさすことにまでなった。このように念仏とは禅定で精神を統一する行の一つで,これにより滅罪や悟りを得るものである。念仏がことに強調されるのは中国浄土教になってからである。浄土教では『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀教』の浄土三部教が根本となるが,『観無量寿経』にはさまざまな観仏の方法が説かれている。中国浄土教の始祖慧遠にあってはまだこの観想念仏が強いが,北魏末に出た曇鸞になると憶念の念仏と称名の念仏を同格に位置づけるようになり,さらに唐の道綽になると末世観が加わり,来世にいたっては称名の念仏こそが正しいとする説を出した。浄土教の大成者善導の考えでは称名の念仏こそ浄土往生のための最上行であるとし他の観念の念仏とは,はっきりと分けるようになった。日本ではこの善導の考え方を受け法然が『撰択本願念仏集』を著し,専修念仏をとなえ,浄土宗を開いた。法然の考えはいろいろと修行のあるなかで,口承念仏こそが易行最勝唯一の往生の道と説き,もっぱらに念仏を唱えることを勧めた。親鸞にあってもこの考え方は同じであるが,専修念仏に他力の考え方を徹底し,口承念仏が即往生を決定するとの考えにいたった。

【民間念仏】中国浄土教においてすでに念仏の口称性が強調され,教理の面でも口称性の理由が深められていたが,民間の布教される側からみると念仏は同じことばの繰り返しという,呪術的言語にも似た,ありがたいことばであった。日本でもすでに奈良時代から浄土教の教えが入ってきていたが,平安時代になって民間に滲透したのは空也を始めとする念仏聖たちの活躍による。この念仏聖たちは六波羅蜜寺空也像にみるように鉦(かね)をたたき,鹿の角の杖をつき,ひたすらに六字の名号を称えることにより往生することを説いた。空也を祖とする念仏行者・阿弥陀の聖(ひじり)と称する人々はほかにも多くいて,山林で修行をし,さまざまな霊験を行った。この念仏聖たちの伝統は鎌倉末期に出た一遍上人によって始められた時宗の徒によって引き継がれ,近世にいたるまで,鉢扣き・茶筅などの念仏系の聖として放浪する。一遍は遊行という型で全国を歩く一方,念仏を感得し,歓喜のうちに踊り始めたという踊り念仏をひろめた。これらが芸能化し,さまざまな念仏踊りが成立する。念仏の民間の定着には,念仏聖や時衆の徒のような,シャーマニスティックな民間宗教者の働きがあった。一方受け入れる側の民衆にも,念仏を唱えれば病気が治る,災害からまぬがれることができるとする信仰があった。とくに御霊や怨霊の祟りによって病気や災害がもたらされると考えた時代には,その御霊や怨霊を念仏で無事往生させて災厄を防ぐとしたため,念仏が民俗行事や民俗芸能に多く入るようになった。死してまもない新仏を送る,盆行事に念仏芸能が多いのは当然であるが,ほかに虫送り・雨乞いなどの災厄除けの芸能にも念仏が用いられる。

〔参考文献〕望月信亨『浄土教之起源及発達』1930,復刊,山喜房

藤田宏達『原始浄土思想の研究』1970,岩波書店

堀一郎『我が国民間信仰史の研究』1953,東京創元新社

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