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●年中行事 ねんちゅうぎょうじ

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毎年周期的に繰り返し行われる行事。ねんじゅうぎょうじともいう。年中行事を行う主体によって、国の行事、公武の行事、神社や寺院・教会の行事、村や集落の行事、家々の行事などに分けることもできる。年中行事は地理・風土・生業・信仰などの影響を受けることが多く、その集団の文化のあり方に左右される。日本の場合は主として大陸から入ってきた外来要素の定着したものが多いが、それを日本的に変容して独自の形につくり変えてきた。毎年同じことを繰り返すのが基本であるが、永い年月のあいだには、社会構造や意識の変化に伴って少しずつ変わってくる。細かい点では家ごとに微妙な違いをみせながら、行事によっては地域に共通する場合が多い。まず、年中行事と密接な関係のある暦の問題から取り上げよう。

【暦と年中行事】『魏志』の倭人伝には当時の日本について〈正歳四節を知らず、ただ春耕秋収を記して、もって年紀となす〉という意味のことが記してある。未だ暦書をもたず、春に耕して秋に収穫するあいだを、1年とみていたということである。弥生時代のころから稲作が始まったといわれており、しだいに定着農業がひろがってきた。そののち幾度となく中国の進んだ暦法が入ってきたが、それをまず受けとめたのは宮廷である。暦によって天体の運行を知り、農事を予告して災害や豊凶を予知するのがヒジリの役目であった。ヒジリは日知りとも聖(暦、コヨミ)とも書き、天子をさす言葉でもあった。統一国家の体制ができてからは、宮廷に日置部という部曲(かきべ)を設け、各地に派遣して暦の指導をしたものと思われる。同じ暦を使わせることが、支配関係と表裏一体になっていたのである。暦の詳細については他項に譲るが、1872年(明治5)に太陽暦が採用されるまで旧暦(太陰太陽暦)が使われていた。月の満ち欠けだけで月日を知る暦を太陰暦というが、それでは誤差が大きすぎるため閏月(うるうづき)をおかなければならない。どこに閏月を設けるかは太陽の観測にもとづく。これが旧暦である。明治になって太陽暦が採用されても、農業の場合は旧暦のほうが季節感が一致したし、漁業でも潮の干満は月の満ち欠けに連動しているから、両者の落差を埋めあわせるため、月遅れとか中暦とかいって、新暦の月数を1カ月遅く読みとる方法もとられた。以上は暦書・暦法の問題であるが、別に自然暦ともいうべきものがある。植物には気温に順応して発芽・開花・結実する性質があるから、暦や寒暖計がなくても、ほかの植物や自然現象と対応させることによって、それぞれの農作物の播種時期を知ることができる。南北に細長く、また高低の多いわが国土では、全国一様に農作業の時期を律することができず、自然暦によるほうが合理的な面がある。東北地方から中部地方にかけては、山の残雪模様によって農作業の目安にする例が多い。残雪模様は地形や日照の影響に左右されて、毎年同じ所に同じような形が現れるものである。白馬岳という山名は代馬岳の意味で、その山に馬の形の残雪模様がみえると、水田の代(しろ)かきを始める。各地に多い駒が岳も同様で、それぞれの土地で代かきや種まきの目安にしている。青森県で種まきおっこ(爺さん)の模様がみえるとか、群馬県で豆まき入道の形になるとかいうのも、残雪模様と農事との関係をよく現している。植物同士の関連によるものでは、村の広場のコブシを種まき桜といって、春早くこのコブシの白い花が咲くと、苗代に籾種をまく目安にしたりする。“山桜が咲いたら麻をまけ”“カッコ鳥が鳴いたら粟をまけ、トット(筒鳥)が来たら豆をまけ”などと、各地各様のいい方がある。暦に関連して、1年の始まりがいつだったかという問題がある。暦の整備した現代においては自明のことであり、今年の元旦と10年前の元旦とは一致する。ところが暦法が安定せず、ましてや自然暦で生活していた時代に、何を目標に年初を定めたかということである。『魏志』倭人伝のいうように、春に耕し秋に収穫するまでを1年とすると、地域差はあるにしても、農事にとりかかる4月ごろを年初とみることができる。冬の期間が空白になるが、現代ほどに厳密さが要求されなかったということもできよう。柳田国男は氏神の祭日の研究から、2月ごろを年初とする時代のあったことを推測している。月の満ち欠けを目標とすると、1月15日前後の小正月も重要で年中行事も集中している。大正月が公的な性格をもつのに対して、小正月は呪的であり畑作予祝の意味合いももつことから、小正月を年初とする考えにも多くの支持があり、陰陽道の考えによるものか節分を年の変わり目とする感覚も根強い。暦は時間の観念の基本をなすものであるが、長い歴史をもっており、年中行事との関連においては未解決の部分が多く残されている。

【日本の年中行事の特色】年中行事に限らず日本文化の特色は、外来文化を選択的に受容し、また日本風に変容させた点にある。早くからこの国土に住みついて狩猟や焼畑耕作の生活をつづけ、そのあいだには自然暦にもとづく年中行事風のものも行っていたことであろうが、大陸から稲作を受け入れ、進んだ暦法を導入するに及んで、しだいに年中行事が形を整えてきた。それも一度に体系的な知識を受け入れたものではなく、幾度となく断片知識が入ってきたため、日本的な変容が大きかった。大陸の先進文化を最初に取り入れたのは、宮廷を中心とする貴族層であった。中国の国家体制を見習うに伴い、年中行事も流入してくる。それが庶民のあいだに浸透する段階では、より大きな変容をもたらし地域差も大きくなる。貴族層の年中行事がそのまま庶民の生活にあてはまるものでもない。日本の年中行事のなかには、大陸から貴族層をへて庶民に下降してきたものと、生業にもとづく農民の年中行事と、農民から武家をへて貴族層にまで達したものなどがある。概していえば稲作の伝来とともに在来の生業形態を徐々に圧迫し、稲作の優越に伴って稲作年中行事が主流を占めるようになる。また稲作を見守ってくれる神に関しては、日本人の神観念は農耕神とともに形成されてきた。田の神・山の神・水神・年神などすべての神格を、日本的な祖霊信仰に帰一させようとする解釈も近世以来盛んになった。しかし日本的な祖霊信仰は宗教にまで高められることがなく、在来の年中行事も信仰の要素を薄め、信仰に無関係の行事も多くなってきた。次に、日本の年中行事を大観して、各行事が1年間のどのような時期に配置されているかをみると、1年の折半、行事の対置という特色を認めることができる。1年の折半というのは、1〜6月までの行事と、7〜12月までの行事とのあいだに対応のみられることである。1月の元日・七草・小正月に対して、7月1日の釜蓋朔日・七夕・盆、2月1日の次郎の朔日に対して8月1日の八朔、6月1日の氷の朔日に対して12月1日の川浸り朔日がある。これらの対応のなかには偶然のものもあろうし、行事のすべてが対応しているわけでもないが、正月と盆とが年に2回の祖霊祭の機会であったためだという説がある。行事の対置については、同じ趣旨の行事が時をへだてて行われることをさす。屋外に臨時の竃を設けて別火(べっか)生活をした名残りと思われる行事は、小正月の鳥追小屋やカマクラ、三月節供や山磯遊びや花見、盆の辻飯や盆竃などがある。2月8日と12月8日とは事八日で、どちらも一つ目の神が来るというし、春亥子と秋亥子も一応対置関係にある。青森県八戸地方では、2月16日に雪神様が農神様と交替する日だといい、9月16日は農神様が雪神様と交替するという。5月5日を女の家というのに対して、11月15日も女の日とする地方がある。三月節供の雛流しは形代を捨てる行事であるが、七夕の眠り流しも同じ趣旨の行事であった。これら行事の対置は、原因が必ずしも単一でなく、また同じ地域で対置しているのでなければ意味が薄いが、まず現状を認めた上で、原因をたずねる手掛かりになろう。近年は日常の意味のケと、非日常を表すハレとを対応させる考えを年中行事に適用し、ケで衰えた生命力をハレで回復し、ハレとケとの循環をいう説もある。

【正月・盆・節供】神社の祭礼や講行事など期日の不定なものや変わりやすいものを別にすると、個々の行事は正月と盆に集中している。農作業の休養の期間と重なった面もあろうが、それだけ重視されてきたからである。盆と正月は年に2度の祖霊祭であったというとらえ方がある。盆は先祖を祭る機会で、7日ごろに墓掃除や道つくり、そのあと盆棚という祭壇を設け、13日ごろには迎え火を焚いて精霊(しょうろう、先祖の霊)を迎える。季節の野菜などを供えてもてなし、15日ごろには送り火を焚いて送りかえす。前年の盆以後に死者のなかった家では、“めでたいお盆でございます”という挨拶を交わしたり、親の生きている人は刺鯖などをもっていって精進でないことを強調する面もあるが、一般には寺院の関与が大きく、仏教的な行事の色彩が強い。それに対して正月のほうは、同じ先祖祭であっても故意に仏教色を排除する傾向がみられる。浄土真宗の地帯は別であるが、僧の年始を4日にして三ガ日を避けるとか、16日を念仏の口明けなどといって、15日までは仏教的な行事をひかえたりする。しかし墓の石塔に注連縄をかけることは広く行われており、大晦日や正月の御霊(みたま)祭りのミタマの飯を、仏壇にも供えるところがある。盆が早くから仏教色を強めたために、清浄を旨とする趣旨から正月の神聖性を強調したのであろうが、本来はともに先祖の霊をまつる機会であったとみるのである。また“1年の計は元旦にあり”というような素朴な感情、心のもち方も根強いものである。とくに積極的な行事になって表現されているわけではないが、“元日から泣いたり怒ったりするものではない”などという。そんなことをすると、1年中泣いたり怒ったりすることになるというのである。年初に年占行事をして、年間の農事を順調に進めようとするのも、この心理と無関係ではないと思われるし、正月の初夢に大きな意味をもたせようとするのも、年初が1年間を支配するという考えにもとづくであろう。節供については、今は節句と書くほうが一般化している。元来は年間の折り目切り目が節(せつ・せち)である。ちょうど竹のところどころに節(ふし)があるように、年間のところどころに年中行事があって、われわれの生活を引きしめ節度を保つ役目を果たしている。しかも年中行事の折々には、3月節供のひし餅、彼岸のぼた餅、5月節供のちまきのように、きまって変わりものをこしらえ、神に供え人も食べる。そういうところから、節の日に供するものの意がそのまま節の日を表すことになった。節も句も区切り目の意味であるから、節句では同じ意味の語を重ねたことになってしまうのである。節供は3月・5月ばかりではない。江戸幕府の定めた五節供は、人日(1月7日)・上巳(3月3日)・端午(5月5日)・七夕(7月7日)・重陽(9月9日)であるが、これは徳川氏発祥の三河の習俗を取り入れたものであろう。全国的にみると、1月7日の花掻き節供、1月11日の田植節供、1月14日の松立て節供・孕み節供・穂垂れ節供、1月15日の粥節供、2月15日の香ばし節供、3月3日の麦ほめ節供・野辺節供、3月16日の農神様の節供などと、きわめて多くの節供があり、年中行事の折々と同義に使われていることがわかる。

【年初の予祝行事】年初とはいいながら、予祝行事は小正月に集中している。小正月は女の正月・小年・二番正月・若年・若正月などといい、大正月が公的なものであるのに対して、私的なもののように受けとめられている。しかしそれは、大正月が正式の正月となってのちに地位が逆転したとみることができ、古くは小正月のほうが正式の正月であった時期があるかも知れない。いずれにしても小正月には呪術的な行事が多く、また稲作ばかりでなく畑作の予祝と思われるものも多く含まれている。物作りという予祝行事には削り花・餅花・まゆ玉などがある。ヌルデなどの木で削りかけをつくり、あるいは木の枝に餅や団子をたくさんつけ、秋の豊作の状態を型取って座敷などに飾る。年初に飾っておくと感染呪術によって秋の豊作が実現するというのである。所作で示すものには庭田植などがある。田植や収穫の様子を模擬的に演じ、年間の農作業が順調に進むように予祝する。小正月とは限らないが神社で行われる田遊び神事も予祝行事で、このとき男と女(女装)とが抱き合って性行為を模擬的に演じ、生産・豊作を予祝するものがあり、これを“かまけわざ”という。カマケルは感染の意である。鳥追いも行為行動によるもので、子どもたちが鳥追い小屋にこもってさわぎたてるものと、列を組んで行進する形とがあるが、いずれも秋になって害鳥が田畑の作物を荒らさないように、あらかじめ年初に追っぱらっておこうとする呪術である。正月用の箸を中太につくって孕み箸という。穀物の穂孕みを予祝するのである。小正月には種々の祝い棒をつくる。呪力をもつ棒で、木刀の形や男根形などさまざまである。去年結婚したばかりの新嫁の尻をたたくと多産の効果があるなどといい、子どもたちが追いまわしたりした。孕めん棒などという。柿の木など実のなる木をたたくのを成り木責めという。いずれも内在する霊力を触発して生産性を向上させようとするものである。小正月には、とんど・左義長・ほけんぎょう・道祖神焼きなどと呼ばれるる火祭りがある。各家の正月飾りを集めてきて焼くだけのものから、とんど小屋に寝泊まりしたあと焼やすものまでいろいろあるが、正月に来臨した年神様がこの煙に乗って帰るのだという民間解説がひろがっている。秋田県に点在するカマクラも、とんど小屋や鳥追い小屋と同類のもので、屋外に臨時のを設けて別火の生活を送った名残りである。また小正月には、遠くから貴い神が来訪するものと考えられており、ほとほと・ことこと・なまはげ・なもみたくりなどの名称で南北に広く分布している。子どもか青年が顔をかくし、あるいは仮装して家々を訪れ、接待を受けたり物をもらったりするものである。このほか小正月には小豆粥をつくって神に供え人も食う。この粥を煮るとき、竹や萱の茎を切ったのを一緒に入れ、飯粒がどの程度入ったかによって年占をすることがある。筒粥・管粥という。ヌルデの棒の先を四つに割って繭玉を押しこんだ粥掻き棒で粥をかきまわし、飯粒の付きぐあいで占うこともある。

【防災除疫の夏まつり】旧暦6月のころは天候不順で食品も腐りやすく、天災や流行病の季節を考えられたようで、それらを防ごうとする呪術的な行事が多い。新暦と旧暦との混同から、6〜7月に7点在する。村境に道切り縄を張って通せんぼをする行事がある。片足の大わらじをつけたり、おふだの類を下げるものもある。他村から流行病の入ってくるのを防ごうとするもので、電柱にお札をつけたり、呪文を書いた杭を立てたりする。道切り縄を張ると人や車の通行に不便なので、道の両側に藁でつくった蛇や虫の類を置くものもある。東北地方には仁王様とか鍾馗様という人形を立てるところが多い。この時期に発生する稲の害虫を、御霊(ごりょう)のしわざと考え、村境に鎮送しようとする行事がある。松明を先頭に、鉦や太鼓をたたきながら田のあぜを回り、虫送りといっている。厄病送りなども同様で、わら人形を害虫や厄病の形式として村境に送り、そこで焼き捨てたり川に流したりする。水田に水の必要な時期だということとも関連して、水神系統の神祭りが盛んである。天王様・津島様・祇園様などの祭りは、防災除疫の意味あいをもって、多くは水辺の行事を伴い、華やかな道具だてで巡回するものが多い。ちょうど麦の収穫の終わった直後なので、新麦で団子やうどんをつくり、神に供え人も食う行事がある。

秋の収穫祭】春から営々と働き育てた農作物が、秋になってようやく収穫の時期を迎える。収穫の喜びは何にも代えがたいものであったから、家でも村でも祝いや祭りが行われる。稲を一例として脱穀調整の過程を追ってみると、稲刈り作業の終わった段階で刈り上げの祝いがある。短期間に刈り終わる必要があって、人手を借りることが多く、そういう人たちへの慰労の意味もある。刈り終わった稲は十分に干してから脱穀する。穂から粒をおとす作業である。これが終わると抜き上げの祝いがあり、また籾殻をはずす作業のあとには磨り上げの祝い、米と籾殻を選り分ける作業がつづく。これらの作業はニワ(土間)ですることが多かったから、終了祝いを庭上げともいう。すべての作業が終わると秋上げの祝いをした。以前は秋上げが年末近くまでかかったが、機械化の進むとともに期間が短縮され、農耕年中行事も統合されて簡略化の傾向がある。村氏神そのほかの神社で行われる秋祭りは、ほとんどが収穫祭であるが、家々の年中行事のなかから代表的なものをあげると、まず三九日(みくにち・さんくにち)がある。9月の9・19・29日の3度を祝うもので、その土地の収穫の時期に合わせて3度のうちのどれかに重点をおく。旧暦10月の亥の日を祝う亥の子や、10月10日の十日夜(とおかんや)も収穫祭である。亥の子はもともと、旧暦10月の亥の日の亥の刻に餅を食べると、無病息災でいられるという中国の俗信にもとづく。平安時代にわが国の宮廷で受け入れ、しだいに民間に普及するあいだに、秋の収穫祭と結びついたものである。とくに瀬戸内海沿岸地方では亥の子の石づきといって、亥の子石に縄をつけて子供たちが地面を突いて歩く行事がある。亥の子が関西に濃厚であるのに対して関東では十日夜が多い。子供たちが手に手に藁鉄砲を持って、“十日夜十日夜十日夜の藁鉄砲、三角畑の麦(そば)あたれ”などとはやしながら、各家の前や田畑の地面を打ってまわる。土地の霊力を触発しようとする呪術である。年中行事のなかには、山の神と田の神が春秋に交代するという伝承がある。春に山の神が里に下りて田の神になり、秋には田の神が山に入って山の神になるという。長野県などでは田から案山子(カカシ)を迎えて餅をついて供えると、10月10日を期して田の神が山に帰るという。東北地方から中部地方にかけては大根の年取りといい、この日は大根畑に入るなという禁忌がある。11月に入ると15日に油祝いがある。石油ランプの普及する前は、種油を燈火に使うことが一般であったし、食用にも髪油にも使われた。この時期を過ぎると油がしぼれなくなるので、油屋も原料買取りの締切日にしていた。菜種の収穫祝いということではないが、農家では菜種を油に代え、この日は天ぷらなど油気のあるものを食べることにしていた。11月23日から24日にかけては大師講で、1本足の神様が訪れてくるという。その神を弘法大師(冬まつり、フユマツリ)や智者大師や元三(がんさん)大師にあてはめ、大師講という。あずき粥や団子汁をつくり、長い箸で食べるところが多い。3・13・23日、または4・14・24日を大師様の日とする地方もある。いずれも収穫祭と考えられている。

【増殖の冬祭り】フユは殖ゆの意だという説がある。農業を中心に考えた場合、四季を等分に分割する必要はなく、冬はごく短期間だったともいう。稲作でいうと、農作業はただの労働ではなく、稲魂を育てる一種の神事とも考えられ、秋の収穫を終えて貯えた籾種は、冬のあいだに増殖して春に備えるというのである。しかし現行年中行事のなかに、それを証明できる資料が多いわけではない。種籾俵を祭りの対象にするとか、正月の年桶・年俵などの習俗からの類推である。人も自然界の中の一つの存在であるから、植物が冬枯れののち春になって芽吹き、動物が冬眠ののち春に盛んに活動するように、人の霊力も年ごとに更新・復活するものと考えたのである。正月に訪れる年神は、人の霊力を更新する威大な力であったろう。

〔参考文献〕柳田国男「年中行事覚書」「新たなる太陽」(『定本柳田國男集』13所収)1938、筑摩書房

諸家『日本民俗学大系』13、1959、平凡社

鈴木栄三『日本年中行事辞典』1977、角川書店

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