50音順    検 索

●年忌 ねんき

アジア 日本 AD 

 死者の追善供養のための仏事。回忌・周忌ともいう。月忌(がっき)は毎月死亡同日(忌日),祥月命日(しょうつきめいにち)が毎年死亡同月同日に行われるが,年忌は数年おきの死亡同月同日に行われる法要である。一般に1・3・7・13・17・25・33年忌があり,33年忌を弔い上げとする所が多い。23・27・50・100・150年忌をする場合もあり,浄土真宗などはことに長期にわたる傾向にある。

【追善供養の歴史】わが国では平安時代まで天皇家や貴族のあいだにおいて“七七日”“百カ日”,1年忌が行われていた。七七日の初見は『続日本紀』に707年(慶雲4)6月に死んだ文武天皇の「初七」より「七七」までの法要が四大寺において行われた記事がある。同書735年(天平7)10月の詔によると,〈親王薨ずれば,七日毎に斎を供え,僧一百人をもって限となす,七七斎訖ればこれを停む,今より以後例となしこれを行え〉とある。百カ日の初見は『日本書紀』に,686年(朱鳥1)9月に他界した天武天皇の百カ日の法会が同年12月に行われたと記す。1年忌の初見は『続日本紀』に,757年(天平宝字1)5月2日,聖武天皇の「周忌」が東大寺に1,500人余の僧を請じて行われたとある。3年忌の初見は『源平盛衰記』(39)に,1186年(文治2)に平重衡の3年忌に際し,重衡に寵愛された千寿・伊王という二人の女性が出家した記事がある。12世紀ごろまでに中国流の十仏事,すなわち死後初七日から七七忌までの7回の中陰行事,その後の百カ日・1年忌・3年忌の計10回にわたる仏事が成立している。この十仏事に7・13・33年忌を加えた十三仏事が12〜14世紀ごろに成立する。7年忌については『空華日工集』の1369年(応安2)8月15日の条,13年忌については『山槐記』の1180年(治承4)12月22日の条,33年忌については『園太暦』の1347年(貞和3)9月25日の条にそれぞれみえる。15世紀のころに17・25年忌を加えた十五仏事が成立した。17年忌については『康富記』の1450年(宝徳2)6月9日の条,25年忌については『蔭凉軒日録』の1437年(永享9)7月13日の条にみえる。一般庶民の年忌法要は民間寺院が多く建立される16世紀中葉から17世紀中葉にかけて生じ,しだいに一般化した。そして近世の寺檀制により寺と家とが結びつき,年忌法要も活発となった。1818年(文政1)編の『備後国沼隈郡浦崎村風俗問状答』には,〈初七日迄は旦那寺より僧来読経仕,夕は講組の者参り,真言念仏相唱申侯。七日目の法事・百ケ日の法事は軽く仕,三十五日・四十九日の法事は分限相応に念入社候〉とし,以後1・3・7・13・17・25・33・50・100・150年忌とつづく様が記されている。

【年忌の行事内容】喪家に近親知己が集まり,寺の僧侶による読経があり,故人をしのぶ。この追善法要をうけることに死者の霊魂は浄まっていく。1年忌ないし1〜3年忌までは荒々しい死霊であり,アラミタマと称し,盆・正月には特別の供養をうける。盆の新仏は早く祭りはじめたり,荒精霊棚を庭先や縁側に特別に作って祭る。また正月を迎える新仏に対しては徳島県三好郡祖谷地方では,年末の辰ないし辰巳の日に,墓地で祭祀する。これを辰巳正月といっている。1〜3年忌のあいだに本位牌をつくったり,石塔を立てたり,納骨を霊山霊場にしたりする。3年忌をすぎると死霊は和やかな精霊になるとみなされる。南島では3〜7年忌のあいだに洗骨をするのが一般である。本土では年忌ごとに塔婆が墓地に立てられて回向をうける。33年忌を最終年忌とする所が多く,このとき位牌を焼却したり,墓地や寺へ納めたりして個人の供養を終了する。また石塔周辺に枝つきの生木の塔婆を立てて,霊を昇天させる象徴的な行為をする。年忌が終わると祖霊となり,やがて神霊になる。年忌は子孫のつとめであり,絶家して祭り手のなくなった死霊は祟るとする観念が強く,死者死霊のためにも家の断絶を極力避けようとする生活観が日本には強くみられた。

〔参考文献〕柳田国男『先祖の話』(定本10)1969,筑摩書房