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●ネルチンスク条約(尼布楚) ネルチンスクじょうやく

NIS諸国 ロシア連邦 AD1689 ロシア帝国

 1689年(康煕28),清とロシアとのあいだに締結された条約。清がヨーロッパ諸国と対等の関係で結んだ最初の条約という意義をもつ。15世紀末以来の地理上の発見によって海上ルートにおいて東西は結ばれたが,シベリア=ルートは依然開かれなかった。しかし16世紀後半,イェルマークの遠征以後,ロシアはウラルの東まで領土を拡大してきた。1618年(万暦46)には中国に対する最初の使いであるイヴァン=ペトリンが通商を目的に明朝の北京に遣わされ,皇帝に謁見することは果たさなかったものの,万暦帝の国書をもち帰った。以後約40年のあいだ,中国とロシアとの交通は途絶える。その間,中国は明−清鼎革を経験し,一方ロシアの領士はシベリア東部に到達し中国の領土と直接接するようになった。1640年代,黒龍江地方にロシアが進出し,同地の領有をめぐってロシアと清とのあいだに戦端が開かれる。しかし他方では交易を目的にロシアの使節バイコフが北京を訪れたりもした(1656)。さらに1660年代,ガンチムールの一族が清領からロシア領であるネルチンスクへ逃亡した問題のためにスパファリ使節が派遣された。彼はシベリア=ルートを使って1676年北京に到着した。しかし謁見の際に叩頭の礼を拒否したため退去を命じられ,ガンチムールの引き渡し問題は解決しなかった。またロシアは清が三藩の乱に目を奪われている隙に黒龍江流域に城塞を建設した。だが康煕帝三藩の乱を平定するや,一方では黒龍江においてアルバジン攻略を開始し,他方ではアルバジンからのロシア人の退去,事態の平和的解決を内容とする書状をロシア皇帝に送った。1685年この書状を受け取ったロシアは和議を決意し,伝書使 N.ヴェニューコフらを北京に派遣した。1686年秋,一行が北京に到着するやいなや康煕帝は直ちに停戦命令を下し講和会議を開く態勢に入った。これより2年後,すなわち1689年8月22日ロシアの全権大使 F.A.ゴローヴィンと清朝の全権大使索額図がネルチンスクにおいて講和会議の席につくことになる。清は会議が決裂しそうになると軍隊を動かして示威行動に出た。また索額図には通訳としてフランス人ジェルビョン・ポルトガル人ペレイラの二人のイエズス会士が随行し会議の継続に協力した。会議の焦点は国境線の画定・アルバジンの帰属にあった。1689年9月7日,幾度もの危機を乗り越えてネルチンスク条約が妥結され,直ちに実施された。条約はラテン語文が正文で,ロシア側はロシア文のテキストを,中国側は満洲文のテキストをそれそれ相手に手渡した。条約の内容の主要点は以下のとおりである。[1]国境線について。アムール河に注ぐアルグン河・ゴルビッツァ河の線を境界とし,ウディ河の南,大ヒンガンの北にあたる地域は画定を後日に延期する(これによってアルバジンは清領,ネルチンスクはロシア領となった)。[2]不法越境の厳禁。[3]逃亡者の捕捉・送還。[4]出入国する者で路票を有する者は売買することを許可する(これによって国境貿易が正式に認められた)。以上,国境の点ではロシアが清にアルバジンを譲る形になったが,通商の点ではロシアはペトリン以来の念願であった露清通商貿易を行う権利を得た。この条約以後,清とロシアは国際的に対等の関係に立つことになる。しかし清の国内で公表された漢文のテキストでは,対等関係をあたかも朝貢関係であるように改めていた。だが,とにかく清朝をして対等の関係に立たせるよう譲歩せしめた要因として,まずジュンガル部のガルダンがロシアにくみするのを恐れたこと,ついでイエズス会士の努力が考えられる(1692年(康煕31)天主教は公許されることになる)。ネルチンスク条約以後,北京には1年おきに200名に制限された官営のキャラバンがやってきて貿易を行い,一方国境地帯のチチハル・庫倫(クーロン)では北京貿易を締め出された個人商人が毛皮の密売などを行った。

〔参考文献〕吉田金一「シベリア・ルート」

榎一雄編『西洋文明と東アジア』所収,東西文明の交流5,1971,平凡社

吉田金一『近代露清関係史』1974,近藤出版社