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●ネルー

アジア インド AD1889 英領インド帝国

 1889〜1964 インドの首相。民族独立運動の指導者・著述家。アッラハーバードの富裕なバラモン階級の出身。父はパンディット=モティラル=ネルー,母はスワラップ=ラニー。インドの女性外交官として,駐ソ・駐米国連大使から,国連総会議長を歴任して活躍したパンディット=ネルーは妹。妻シュリマティ=カマラと1916年に結婚し,そのあいだに一人娘インディラ=ガンディーがある。彼女は父の死後インドの女性首相として国民会議派を率いて種々の問題を抱えながら強引ともいえる政治を行ってきたが,1984年10月,反政府派のテロの凶弾に倒れた。その直後,インディラの子息ラジブ=ガンディーが母の後を継いで首相となり,総選挙も大勝利を収めて,3代30余年にわたる“ネルー王朝”は今なお存続している。

 ネルーは,1905年3月イギリスに渡り,名門ハロー校からケンブリッジ大学のトリニティ=カレッジを卒業した。同じころ,のちにネルーのライバルとなったパティル副首相もハロー校で学んでいるが,この優雅な英国留学時代に,欧州各地を旅行し,アイルランドの独立運動(現在もつづいているが)や,ハンガリーのオーストリア帝国に対する抵抗運動,日露戦争の日本の勝利が呼んだ大きな反響などを目のあたりにしている。1912年,弁護士の資格をとって帰国し,国民会議派に入って政治活動を始め,1921年,プリンス=オブ=ウェールズの訪印に反対し,ガンディーのハルタル(総罷業)指令などに協力して,初めての投獄を味わった。英国政庁側は,すでにネルーに眼をつけ〈非抵抗主義のガンディーよりも,インドの将来にとって,最も危険な男となるのはジャワハルラル=ネルーだから,まず,あの父子を投獄した〉と記録している。アカリ運動を扇動して再び投獄されたが釈放後,アラハバードの市長になった(1924)。妻カマラの産後の衰弱と肺結核の療養のために1926年,スイスに渡っだが,その間にソヴィエト革命十周年記念祭に招かれてモスクワを訪れ,英国では炭鉱スト,ローマではファシストによる農村の共同組合の実情などを自分の目で見た。1927年ブリュッセルでの被抑圧民族・反帝大会にインド国民会議派代表として出席し,アジア・アフリカ・ラテンアメリカより集まった共産主義者や左翼主義者たちと会った。1920年代の後半から,ガンディーの協力者・会議派左派の指導者として重要な役割を演じた。1929年には,会議派ラホール大会の議長に選出され,プールナ=スワラージ(完全自治)宣言を採択した。1930年ガンディーの“塩の行進”で逮捕投獄,釈放後また投獄。ネルーの獄中生活は前後9回,延べ3,262日間に及ぶ。監獄のなかでのネルーは,精力的に執筆活動をつづけ,得意の英文で『父が子に語る世界史』『ネルー自伝』『インドの発見』などの名著を完成させている。彼にとっての獄中は〈スターリンやムッソリーニが監獄は大学院である〉といったように,まさに最も安全な読書・執筆・学問の場であった。1935年,病妻カマラをヨーロッパに見舞ったが,その死でインドに帰った。その後会議派議長をつとめ,第二次世界大戦中は,1942年から1945年までを獄中で過ごした。1946年インド代表としてシムラ会議に出席,インド臨時政府副首相兼外相・英連邦関係相となり,1947年インドとパキスタンの分離独立後,死亡するまで引きつづいて首相をつとめ,インド民族の復興のために全精力を献げた。国際的には,第三次世界大戦の危機が叫ばれた朝鮮戦争後の世界で,熱戦の火消し役・冷戦の調停役としての努力をつづけ,平和共存の外交路線を打ち出し,国際連合を舞台とした世界平和への貢献は,米・ソの2大脅威に対する第三世界のニューリーダーとしても高く評価された。そのおもな足跡は,1949年友好使節として訪米,1950年第1回英連邦外相会議出席,1951〜54年国民会議派議長,1954年平和五原則を前文とした中印協定,1955年アジア=アフリカ(バンドン)会議の組織,1956年非同盟中立を宣言し,チトー・ナセル・周恩来らと会議,1957年核実験停止声明の発表,1958年チェコスロヴァキア首相と軍縮に関する共同声明発表,1961年ニューデリーで世界平和評議会開催,1963年米・英・ソについで,インドも部分的核実験停止条約調印,などがあげられる。まさに死の直前まで,世界平和とインド民族の独立・復興に尽くした。

〔参考文献〕中村平治『ネルー』清水書院

蝋山芳郎編『ガンジー・ネルー』世界の名著63,中央公論社

山折哲雄『ガンディーとネルー』東洋人の思想と行動5,評論社

ジャワハルラル=ネルー『ネルー自伝』1〜3,文明社

大森実『ネール』人物現代史11,講談社

山本達郎『ィンド史』世界各国史10,山川出版社