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●ネーデルラント独立戦争 ネーデルラントどくりつせんそう

ヨーロッパ オランダ王国 AD1568 

 1568〜1648 オランダ連邦共和国の生誕と確立を促すネーデルラント独立戦争は二つの観点から,すなわち,[1]16〜17世紀にみられる近代的国民国家形成という世界史の流れの一つとして,[2]ネーデルラント北部地域の独立・繁栄として眺めることができる。

 1516年スペイン王となったカルロス1世は1519年ドイツ皇帝も兼ねることになり,彼は当時としては最も広い地域を統治する君主となった。このハプスブルク帝国はさらに普遍的ともいえるカトリック教によっていた。1517年ドイツで発生した宗教改革ははじめは文字通りキリスト教会内での係争であったがついにそれは国際的なハプスブルク帝国圏を分断し,それぞれのキリスト教を是とする地域別民族国家出現に連なった。1555年カルロス1世は息子のフィリップ2世にネーデルラントを与える。スペインで生まれ厳格なカトリック的雰囲気のなかで育ったフィリップ2世はネーデルラントにもスペイン流の絶体主義的支配や異端弾圧をもって臨んだ。しかし北海に面した痩せた土地の住民は専制君主に支配された歴史もなく貴族・市民や農村民も自由と特権とを享受していた。とくにネーデルラント北部地域の住民は北海の漁業を主として航海や造船に習熟し,海運業と加工貿易業を発展させる。このような自由の雰囲気を弾圧しようとするスペイン絶体主義支配者の宗教,そして財政政策は全住民の反発を受ける。異端弾圧から発した住民の野外説教集会はたちまちゲリラ的運動に連なり,フィリップ2世がアルバ公を総司令官とするスペイン軍をネーデルラントに派遣し,「血の評議会」によって反抗者の徹底した粛清弾圧を強行したことは有力貴族・市民の国外逃亡をひきおこした。

 1568年ドイツ地域に亡命していたオレンジ家のウィリアム1世とローデウェイクがネーデルラントに侵攻した事件をもって80年にわたるネーデルラント独立戦争が始まる。スペイン軍に弾圧された貴族や市民たちは自らを「乞食党」と称し,スペイン正規軍よりも知悉した地理を利用しながら圧倒的な戦力に対抗するゲリラ戦法を好んでとる。1572年までネーデルラント北部はアムステルダムを除いて反スペイン側の勢力圏に入った。1572年ホラント州の都市レイデンは包囲されたが長期間の抵抗をつづけ,さらにウィリアムの堤防決壊作戦によりスペイン軍に大打撃を与え,独立側はレイデンを確保することができた。これは反スペイン側の士気を高揚させ,ついにはウィリアムの努力によりホラント・ゼーラント2州とスペイン支配下諸州とのあいだに「ヘントの平和」を1576年に実現させることになった。しかしこの休戦はスペインから到着した執政ファルネーゼの策略で破られ,ネーデルラント南部の貴族たちはスペインへの服従をめざす「アラス同盟」を結成した。これに対して反スペイン的になっていった北部のホラント,ゼーラント,ユトレヒト,ヘルダーラント,オーフェルエィセル,フリースラント,そしてフロニンヘンの7州は1579年ユトレヒト同盟を結成してスペイン勢力に対する徹底抗戦を明らかにする。この抵抗7州こそオランダ連邦共和国の中心となる。

 もちろん80年にわたる戦争は継戦と休戦,スペイン軍内部の反乱そしてウィリアム1世暗殺という事件が含まれている。しかしながら1600年ごろまでにこのオランダ連邦共和国は経済的にも政治的にも強国となり一躍ヨーロッパの注目を集めることになる。ネーデルラント連邦共和国の興隆とは逆にすでにスペインの「無敵艦隊」は1588年イギリス海軍に敗北しており,ヨーロッパの征海権はしだいに北ヨーロッパのオランダそしてイギリスに移っていった。反スペインの動向は17世紀に入って全ヨーロッパ的となり1618年からの三十年戦争に連なる。新生オランダ連邦共和国はスウェーデン・イギリス,そしてときには敵の敵であるフランスと同盟を結びながら自己の存在を強化し,1648年のウェストファリア条約で正式に主権国家群の一員となった。オランダ市民文化も一挙に開花するのである。