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●ネップ

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 新経済政策のロシア語 Novaya Ekonomicheskaya Politika の略。1921年3月の第10回党大会で,従来の国内戦時代(1918〜21)の「戦時共産主義政策」に代わって採択された新しい経済政策。1928年10月の第1次産業五カ年計画が実施されるまで行われた。

【ネップの採用】1920年ごろ,うちつづく革命と内乱によりロシア経済が破局に瀕し,戦時共産主義政策に対する不満が増大するなか,レーニンの決断によりネップが採用された。それは,戦時共産主義が一挙に共産主義理論を遂行しようとしたのに対し,若干の自由経済活動を認めて農業を活気づかせ,工業の発展を図り,国内の商品流通を活発にし,労働者と農民の提携による社会主義社会建設のための必要な基盤をつくりだそうというものであった。1921年3月21日,従来の余剰穀物徴発制を廃し,収穫見積りの10%を現物税として納付,残りは自由処分に委ねる布告が出された。1923年には金納も併用,翌年すべて金納となる。また,1921年12月10日,20人以下の労働者を使用する小企業の国有が廃止され,企業の貸借制が採用された。1922年3月22日の布告により,国営企業中国家の手により急速に発展させることが困難なものには,利権譲渡の形で私的経営が許可された。外国資本の投資も限られた範囲で認められ,国内商業の自由も1921年7月認可され,交換手段としての貨幣の役割の急増に伴い,1921年末には国立銀行も設立された。

【ネップの実施】ネップ実施当初,1923年秋工業製品が従来とは逆に農産物に比べ非常な高値を呼ぶという「はさみ型価格差恐慌」がおこり,農民の購買力低下・工業製品販売恐慌を来し,労働者の賃金支払を困難とした。また,商業の復活により投機商人であるネップマンも出現し,ネップは貨幣経済の拡大・資本増大へのコースをたどった。そこで,企業支出の引き締め,工業における緊縮政策,流通部門における貨幣制度の改革すなわち1924年4月の新貨幣チェルヴォネツ(金貨制)発行による通貨の安定化,ネップマンの追放,ソヴィエトと協同組合の機関を通じての商業の発展化などが図られて,国民経済は急速に回復した。1924〜25年度には農業は戦前の87%,1925年には大規模工業は75.5%まで復活した。1927年には,多くの分野における生産が,ほぼ戦前の水準に達した。農業生産高は1913年の127億9,000万ルーブルに近く,工業生産高は1913年の63億9,000万ルーブルを2億ルーブル以上も上回った。しかし,農村では富農(クラーク)が成長し,彼らは農業資本家・高利貸し,家畜や農業機械の賃貸を行うものとして大勢力を占めた。貧農化した農民は都市に流入し,1927年ごろにはその数200万に達した。ネップが国家経済を回復し,反面その弊害が顕著になるに及び,ネップは打ち切られ,1928年10月第1次五カ年計画が実施された。

【ネップの意味】ネップはソ連経済の回復の役目を果たすとともに,外は資本主義国との国交回復,内はソヴィエトの政治形式・政府機関の整備安定化を意味した。こうしたなかで,ネップ採用時およびはさみ型価格差恐慌がおこったとき,ネップを資本主義への屈服であると非難し,永続革命論に立ったトロツキーに対し,ネップを支持し実務家肌で一国社会主義を説くスターリンが台頭した。そもそも,ネップは農民に対する政策であっただけに,工業化のテンポを抑制していた。しかし,経済が復興し,それ以上の工業化が必要となったとき,ネップは変貌する。1925年1月のトロツキーらの追放後,工業化理論は左派の綱領としてではなく,党の方針となり,ロシア経済復興のための農民との協調の必要を説いたスターリンの一国社会主義も,急進的な工業化を基調としたものへと変化する。ネップはその実施過程のなかで,産業五カ年計画の採用そのものをも準備したのである。

〔参考文献〕ドッブ,野々村一雄訳『ソヴェート経済史上』1974,日本評論社

溪内謙「ネップ期のソ連」岩波講座世界歴史第26巻,1970,岩波書店。