●布 ぬの
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元来は麻・苧(からむし)・葛(くず)などの靱皮繊維で織った織物を布といったが,のちにはこれに木綿も加え,絹や毛織物以外の織物を布と称するようになった。それが今日では化学繊維の発違に伴って,繊維の種類も多様になり,絹・毛のほか化学繊維などすべての繊維で織った織物をはじめ,ニット・レース・フェルトなどのように布状になっているものを総称して布といっている。古代の織物は麻と絹で,麻類の織物を布,絹織物を帛といい,これをいっしょにして布帛(ふはく)といった。布帛ということばは一般に織物をさしていたが,のちにインドから棉が中国に伝わり,これを原料にして織った木綿がわが国にも伝えられると,麻織物に近い感触でこれを布と呼んだ。古来日本では絹織物を衣料として用いることができるのは,公家や武家などの支配階級者であり,庶民は大麻・苧麻・葛・藤・桑・科などの植物の靱皮繊維を採取し,これを紡いで糸とし製織して衣料用にしていた。室町時代になって木綿の織物や種子が輸入されたが,東北地方など寒冷地には棉は生育しなかった。また明治まで日本の人口の8割までが農民であったが,江戸時代の封建制度下において,農民は自由に木綿の反物を購入するだけのゆとりはなかった。すなわち自給自足の生活を余儀なくされ,衣生活も自家栽培による麻を紡いで織った布によるものであった。麻の栽培から布に織り上げるまでには,かなりの日数を要した。
【麻の裁培と製織】麻は太古においては野生のものを採取していたが,のちに栽培するようになった。大麻の原産地は中央アジアであり,その栽培は4,000年前といわれる。わが国では東北地方において昭和20年ごろまで農村で自家用として栽培されていた。その方法は早春に種子をまき,夏刈り取る。葉と根を除いて3時間蒸し,3日間天日で乾燥する。夜は室内に取り込み夜露をあてないようにする。その後剥皮といって,木の台の上に乗せ,刃物で不要の物を取り除き,麻の繊維をつくる。さらに水に浸し,天日に晒して白く仕上げる。それを織り糸にする製糸の工程が根気を要する。麻の繊維を口にくわえて細くさき,1本の糸につなぐ。これを糸紵(う・お)みという。紵んだものは,糸撚り車にかけ,撚り糸をつくる。こうしてやっと機にかけられ,手機で織り上げ反物になる。反物は藍その他植物染料で染めて衣服に縫い上げる。これは女の冬のあいだの手仕事であり,栽培から縫製まで1年以上要する気の遠くなるような工程であった。したがって反物や衣類は食物と同じくらいあるいはそれ以上に大切なもので,大事に着用した。
【刺し子着】とくに東北地方に発達した刺し子着は,大切な衣料を少しでも丈夫にして長持ちさせるための工夫であり,冷たい感触の麻の衣服を少しでも温かく着用するための工夫から発したものである。布は1枚より2枚にしたほうが温かく,糸で刺すことによって丈夫になる。最初麻糸で刺していたが,木綿糸が手に入るようになると,木綿糸で刺すようになった。刺し方も地の布目が見えないほど密に刺せば,厚地の綿織物のようになる。青森県弘前地方に残るこぎん刺しや,南部地方の菱刺しは東北の刺し子の代表的なもので,刺しの技法が高度に発達したものである。菱刺しは色毛糸を使って菱形模様に刺し尽し,北欧の織物を思わせるように色彩豊富で厚みがある。東北地方に木綿が入り,自由に着用できるようになったのは明治時代になってからである。それまでは木綿は高価で手がでないもの,少しずつ端布を購入して部分的に接いで用いたり,取り替え木綿として手に入れたり,あるいは市日などで古木綿を少しずつ購入するなどで,もっぱら庶民の衣料は麻布で「のの」「ぬの」と呼んでいた。藩政時代における衣服規制は,農民に対して厳しいもので,津軽藩では木綿の使用が禁止され,南部藩では新木綿の使用が禁止されている。現在麻布は夏の衣料として珍重され,むしろ高級衣料となっている。またインテリアとしても使われている。
〔参考文献〕服装文化協会編『服装大百科事典』1969