50音順    検 索

●抜け参り ぬけまいり

アジア 日本 AD 

 お蔭参りともいわれる。父母または主人に知らせず,青年男女・奉公人が無断で伊勢参りに抜け出す風習が江戸時代中期以降盛んとなり,これを抜け参りといった。伊勢神宮に対する信仰は年ごとに高まり,富裕な町人・農民階級のあいだでは一生に一度は必ず伊勢に参るものだ,といわれるようになった。このため各地には路銀を積むための“伊勢講”が組まれるほどであった。しかしこのように公然と伊勢に参宮するには,やはり相当な財力が必要で,中流階級層以下の町人・農民や奉公人たちにとっては困難なことであった。これらの階層の人たちが集団で伊勢へ参宮するようになったのは,1650年(慶安3)であったといわれるが,それ以後およそ60年を周期としてお蔭年に盛んであったため,お蔭参りとも呼ばれるようになった。こうした集団での伊勢への参宮は1650年以降おこったが,とくに盛んであったのは,1705年(宝永2),1771年(明和8),1830年(文政13),1867年(慶応3)の4回であった。こうした蔭参りがおこると,雇人や奉公人のあいだには仕事を抜け出し,また一家の主婦が家を捨てて熱狂的に参加する場合も多く,当初は非難された。江戸幕府も最初はこれを禁止しようとしたが,しだいに町人・農民など被支配階級層の不満のはけ口としての効果や,都市部・農村部の貧民減少の効果を認め,黙認するようになった。これを受けて抜け参りは盛んとなったが,のちには支配階級層自らが,抜け参りを暗にすすめるほどであった。これに参加する者はひしゃく1本だけをもってふらりと出て行く場合が多く,ある一定の集団が形成されると口々に,「お伊勢参りじゃ」とか,あるいは「お蔭参りじゃ」などと唱え,徒党を組んで練り歩いた。そして街道沿いの庄屋・商家などに勝手に上がり込んでは報謝にあずかりながら伊勢へむかった。また街道沿いの人々もこの集団に対して施米をしたり,善根宿と称して宿を提供したりするものも現れ,なかには路銀として相当の額を出すものまであった。これらの事実は,この集団での伊勢参りを人々が,たとえそれが抜け参りという異常な形態をとっていたにせよ,これを一種の神聖な行為,あるいは神の行進とみなしていたことを表している。そして実際に,この集団を妨害したり抑圧したりしたものには神罰が下るとされ,各地でさまざまな民話や伝承を生んだ。またこの集団に対しての人々の応対を,人類学の立場から,一種の“ポトラッチ(蕩尽)”とみる見方もあり,それについては今後の研究が待たれている。こうしたこともあって,お蔭年にあたらなくても勝手に家を抜け出し伊勢へ参宮する風習が定着し,とくに青少年に対しては,伊勢から帰ると一人前と認めるようになった。このような集団での熱狂的な参宮がなぜおこったかについてはいろいろな原因が考えられよう。江戸時代の一般庶民階層は,封建的な支配体制に完全に組み込まれ,そこから逃げ出すことはほとんど不可能だった。とくに町人階級に限っていえば,貨幣経済の発達に伴いその実質的な地位は,少しずつではあるが向上していたが,“士農工商”の封建的な身分制度のもとでは,相変わらず抑圧されていた。この被抑圧感を,一時的であったにしても解消してくれるものとして,この集団的な熱狂のなかに身を投ずることが町人階級にできるただ一つの反抗らしいものであった。さらに一般庶民階層を取り巻いていた,徒弟制度や家族制度などの封建的重圧に対する不満を発散するための方法として,民衆の圧倒的な支持を受けたのである。このように抜け参りの原因としては,宗教的な性格よりも政治的な側面をみることができる。しかしそれは,この抜け参りが江戸の封建社会における庶民階層の抵抗運動であったことを意味している。この意味でいえば,封建制度末期の江戸幕末に京都・大坂を中心におこった“ええじゃないか”の大流行と,この抜け参りとは,密接なつながりをもっているといえる。“ええじゃないか”が封建体制の末期におこったことは興味深い事実である。