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●忍性 にんしょう

アジア 日本 AD1217 鎌倉時代

 1217〜1303(建保5〜乾元1)良観房。大和国の人。父は伴貞行。16歳のとき,母が臨終に際してわが子の僧形を見たいと切望したので,剃髪し僧形になったといい,翌年東大寺戒壇院で受戒,その後西大寺叡尊に会い叡尊から出家を勧められた翌年の1240年(仁治1),忍性は叡尊について出家をとげ,西大寺律宗の一員となった。1252年(建長4)忍性は,叡尊の教えを東国に弘めるため下向して,常陸筑波郡三村の清涼院に入った。清涼院は三村寺とも呼ばれ,常陸の守護にもなった八田知家の菩提寺であった。忍性の東国下向の目的からいえば,鎌倉に進出することが重要であって,三村から鎌倉に出るうちに,鎌倉清涼寺に住するようになり,北条氏一門の人たちに接近した。北条重時に招かれて鎌倉極楽寺の寺地の選定や造営のことにもかかわり,重時の子業時は,多宝寺を創建して忍性を住持とした。1262年(弘長2),師の叡尊北条実時に招かれて鎌倉に下向して人々に授戒したが,実時の叡尊招請には忍性からの勧めもあったと考えられる。忍性は鎌倉に来た師の教化活動をたすけ,叡尊の病気のときには,代わって授戒もしていて,叡尊の高弟であることを示している。この叡尊の鎌倉下向は,西大寺律宗の鎌倉進出を確固たるものにした。この年,忍性は多宝寺住持となったが,重時創建の極楽寺は,重時の子長時・業時兄弟により律院とされ,1267年(文永4)忍性を開山とした。忍性は以後没年にいたるまで同寺に住した。一方,忍性は灌頂をうけて阿闍梨となり,律僧としてばかりでなく,真言僧としての面をもち,戒行と祈祷の二つを修していく。真言僧としての忍性の活躍を示すのは,1281年(弘安4)の祈祷である。この年,幕府の命による仁王講や祈祷を行っているうちに,襲来していた蒙古の軍船が退散したという知らせがあり,執権北条時宗はこれを喜び,忍性の極楽寺を朝廷に奏して御祈祷所に加えたという。忍性も師叡尊と同じく異国の難を払うために祈った。さらに忍性は将軍家にゆかりある永福寺・五大堂の別当に任命され,鎌倉大仏の別当にもなり,鎌倉仏教界における顕要の座を占めていった。これより先,忍性は摂津多田院の別当となり,その経営に当たっていた。多田院は,多田源氏の祖源満仲が一族の信仰の中心として創建した寺で,忍性は同寺本堂の修理とそのための勧進に当たり,新田の開発も行って,これを完成,本堂供養の時には,叡尊が人々に授戒した。こうして多田院も西大寺律宗の根拠の一つに組み込んでいった。叡尊は1290年(正応3)没したが,忍性は西大寺流の長老として,西大寺をはじめ同寺傘下の般若寺などを将軍の祈祷所とすることにより,諸寺の安全化をはかり,晩年にいたっても,東大寺大勧進や四天王寺別当に任命される顕要の道を歩いたが,1303年(嘉元1)極楽寺で没した。1328年(嘉暦3),忍性の門弟らの申請がいれられて,忍性菩薩と号することが,後醍醐天皇により許された。忍性はまた,日本律宗の祖である鑑真の徳を顕彰すべく,『唐大和上東征絵伝』を制作させ,これを鑑真旧住の唐招提寺に奉納していて,鎌倉時代の高僧伝絵巻の一つを加えた。師叡尊西大寺においてしばしば出版を行い,これらを西大寺版と呼んでいるが,忍性も極楽寺において出版を行い,極楽寺版と呼ばれている。忍性の活動のなかでとりわけ注目されるのは,慈善救済の実践で,療病院・悲田院を設けて人々の救済に当たり,日本最初の馬病舎も設けた。持戒持律の立場から殺生禁断を勧め行い,また,架橋・作道・掘井などを行っていた。しかし,同時期鎌倉で法華信仰を弘めていた日蓮はこの忍性とその律宗について,戒律は世間をたぶらかす法であり,“律僧は国賊”とまでいう。日蓮によれば,1271年(文永8)の旱魃に当たり忍性は極楽寺・多宝寺などの諸僧を動員,雨を祈ったが,その効果はなかった。忍性の伝記はこの2年前の祈雨の効験を記すが,これについて記さない。日蓮は佐渡流罪につながる一連の弾圧の契機は,忍性が鎌倉浄土教の道教房念空や然阿良忠と共同して訴えたことにあるとした。

〔参考文献〕和島芳男『叡尊・忍性』1959,吉川弘文館

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