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●ニュー・ディール

北アメリカ アメリカ合衆国 AD 

 大恐慌のなかで,1933年から大統領フランクリン=ルーズヴェルトのもとで展開されたアメリカ合衆国の国内政策。

【共和党政権の恐慌対策】1929年秋に始まった経済恐慌は深化の一途をたどり,1932年,合衆国の経済規模はほぼ半分に縮小し,失業者は,1,300万人(労働人口の約25%)に達した。この間,共和党のフーヴァー大統領は経済界・金融界の指導者を集めて,業界の自助と協力,雇用の確保を要請し,連邦農場局を通じて農産物価格の安定を試み,さらに復興金融公社を設立して(1932),巨額の政府資金を景気回復の鍵とみなされた鉄道会社や金融機関に融資した。これらは当時としては画期的な試みであり,ニュー=ディールにつながるものであった。しかしフーヴァーは民間や地方政府の自発的努力と協力こそがアメリカ民主主義の基盤であり,国家権力の大幅な拡大と行使は全体主義・社会主義に通じると信じ,またこの考えから恐慌に苦しむ民衆に連邦政府の直接の援助を差しのべなかった。1932年の大統領選挙を迎えて,フーヴァーは恐慌と困窮のシンボルとなり,必ずしも明確な内容をもたぬ“ニュー=ディール(新規まき直し)”を掲げた民主党候補ルーズヴェルトが大統領に当選した。

【ニューディールの開始】ルーズヴェルト大統領の特質は恐慌克服のために多種多様な実験を大胆に行おうとする意欲と行動力にあった。彼は意欲的な新人を内閣に登用し,有能な助言者(ブレーン=トラスト)を集めて,1933年3月からの“100日”間に爆発的な勢いで多数の恐慌対策立法を成立させた。中心をなした立法は全国産業復輿法(NIRA)と農業調整法(AAA)であった。全国産業復興法は各種の産業ごとに価格・賃金・競争条件などを定めた“産業規約”を作製させ,これら各業界の自己規制に対しては反独占法の適用を免除し,これによって産業の安定と回復をめざした。加えて同法は労働者の団結権と団体交渉権を公認し(第7条a項),また33億ドルの予算をもつ公共事業局PWA)の設立を定めた。農業調整法は農家収入を第一次世界大戦前夜の水準に回復することをめざし,主要農産物の生産制限とそれへの補償,出荷協定の公認,農産物抵当の金融などの規定を含んだ。金融界に対しては,無責任な投機が恐慌を誘発したとする認識から,銀行の証券投資の規制,証券取引委員会(SEC,1934)による株式取引の規制もなされたが,ルーズヴェルトは就任後直ちに短期間の“銀行休日”を宣言して,切迫していた銀行倒産を救い,ついで復興金融公社を通して銀行に融資した。また一般市民の銀行預金を守る連邦保障公社,農場と家屋の抵当流れを防ぐ家屋所有者金融公社も設けられ,連邦政府の威信と信用をもって民間銀行を補強する措置がとられた。ルーズヴェルト就任時に1,500万人に達していた失業者救済のためには,さしあたって連邦緊急救済局FERA)が設けられ,ついで軍の管理下に青年を植林事業に雇用する民間資源保存公社CCC),無審査で失業者を直接に雇用する民間事業局(CWA)が活動を開始した。初期ニュー=ディールの最も大胆な実験はテネシー渓谷開発公社(TVA)による多目的の地域開発であった。それは政府資金で7南部州にわたってダムと運河を建設し,土壌を再生させ,洪水を防ぎ,無数の家庭と企業に電力を供給した。

 こうして連邦政府は未曽有の規模で経済の各分野に介入したが,それは国家権力による経済統制や資本主義経済の根本的修正を意図するものでなかった。政府の諸政策は民間の経済団体や州・地方政府の自主性を尊重し,これと協力する形で展開され,また失業救済事業の賃金も民間企業を圧迫しないよう低く抑えられた。しかも経済の回復ははかどらず,1934年末にいたっても失業は1932年秋の水準に近く,また農村の苦境も大農場主を除いては緩和されなかった。とくに全国産業復興法は大企業に有利な産業規約の作製に終わり,激しい批判が生じていた。華々しく開幕したニュー=ディールへの信頼は減じ,貧困と不安にあえぐ大衆のあいだで,“富の再分配”を唱える上院議員ロングや一律月額200ドルの老人年金支給を説く医師タウンゼントなど即効的で民衆的な解決策を唱える人々が急速に支持を集めた。これらの動きは政府と議会に不安を生じさせ,ニュー=ディールの大転換を促した。

【ニューディールの拡大】1935年ルーズヴェルトは巨大な失業対策計画と社会保障法を成立させ,ニュー=ディールの拡大と社会改革に踏み切った。巨額の資金を持つ雇用促進局WPA)が発足し,平均200万人を雇用して道路・学校・空港などを建設し,多彩な文化事業を行った。社会保障法は労使の掛け金による老齢年金制度・失業保険制度を開始し,母子家庭・病弱者・老人などへの生活保障を定めて,合衆国の社会福祉国家への転換をしるした。全国労働関係法ワグナー法)も画期的であった。全国産業復興法7条a項では,経営者による組合活動妨害が可能であったが,ワグナー法は労働者が自発的に組織した組合への妨害を禁止し,経営者に組合との交渉を義務づけ,さらにそれらの規定の実施を監督する全国労働関係局を設置した。これらの新政策は多数の下層民衆を救い,大衆に大きな希望を与えた。それゆえに1936年の大統領選挙では,富裕な保守層の激しいニュー=ディール攻撃にもかかわらず,ルーズヴェルトは驚異的な大差で共和党候補ランドンを破り,再選を確保した。この大勝は連邦政府が国民の経済生活に責任をもつ原則と進歩派・都市大衆・組織労働者・相当数の農民などから成る“ニュー=ディール連合”の成立を意味した。在来共和党支持であった黒人もこの連合に加わり,民主党支持に転じた。

【ニュー=ディールの行き詰り】第2期に入ったルーズヴェルトは,全国産業復興法農業調整法に違憲判決を下した(1935〜36)最高裁判所の改組を企てたが,かえって議会の反発を招いて敗れた。最高裁はこれを機にワグナー法に合憲判決を下すなど,連邦政府の経済・社会規制を支持する方向に転じたが,ルーズヴェルトの指導力は減じた。またこの間ワグナー法に鼓舞されて労働運動が急速に盛り上がり,とくに産業別労働委員会(CIO,1935)が自動車・鉄鋼など基幹産業の組織化に成功したが,激しい労使対立は民主党内にも論議を招き,ニュー=ディールへの警戒が強まった。それゆえ,1937年には小作農民や農業労働者を援助する農場保障局が設けられ,1938年には最低賃金基準を設定した公正労働基準法が成立し,また反独占法の強化や低所得者用住宅の建設などが試みられたが,概してニュー=ディールは勢いを失った。とくに1937年秋からは再度深刻な景気後退が生じ,失業者数も再度1千万を超えた。この事態は恐慌対策としてのニュー=ディールの行き詰まりを示した。ルーズヴェルトの指導力は衰え,議会では共和党と南部民主党員が組んだ保守派が勢力を回復した。さらに世界情勢の急速な悪化のなかで,1938年から政府は国防の強化に着手した。軍事支出が経済の回復を促すこととなり,第二次世界大戦のなかで完全雇用も実現した。恐慌は戦争経済によって克服されたのであり,この意味ではニュー=ディールは失敗であった。しかしニュー=ディールによって社会福祉制度が発足し,労働者の権利が確立し,連邦政府が国民経済の安定に責任をもつ体制が出現した。また恐慌による困窮と不安にもかかわらず,合衆国の資本主義・民主主義体制はむしろ強化された。この意味でニュー=ディールは成功であり,大戦後の合衆国の政治の方向を決定したのである。

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