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●ニュージーランド

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【総説】首都はウェリントン。国名は発見者であるオランダ東インド会社のタスマンに因み,オランダの州名である Zeeland に由来する。オーストラリア大陸の南東約2,000kmの洋上にあり,太平洋とタスマン海にはさまれた島国。北島と南島が主要国土で,これ以外にスチュアート島など大小の島がある。国土面積は約27万平方km。南島は山岳地帯が多く,万年氷河もあり,マウント=クックは有名。年間降雨量と気候が比較的一定しているため国土の約45%が農業・酪農用地となっており,一大農業国。総人口約320万人。それも北島の商業都市オークランド・ウェリントン・ハミルトンなど都市部への人口集中が著しい。

【民族・宗教・言語】総人口の約90%が英国を中心としたヨーロッパ系白人である。先住民マオリ族は約7%を占め,かなりの程度に混血化が進んでいる。マオリは北島に多く分布し,なかでも温泉地として有名なロトルアはマオリ文化を継承する観光地。マオリ以外にも南太平洋から移住したポリネシア人も多く,現在ニュージーランドは多民族が平和的に共存している複合社会。宗教ではプロテスタントが約65%と最も多く,次にカトリックが約15%。公用語は英語であるが,マオリ族には伝統的なマオリ語もある。

【歴史】もともとタスマンが1642年12月に南島を発見したのがヨーロッパとの最初の接触。このときタスマンの部下3人がマオリに殺害された。その後長い空白の期間があり,1769年に英人キャプテン=ジェームズ=クックが再発見した。以後さまざまな白人が定住しはじめ,マオリとのあいだに土地所有をめぐって闘いがたえず,無政府状態がつづいたため,英国は1840年2月に北島のワイタンギでマオリと条約を締結し,マオリは主権を英国に譲渡し,英国はマオリに資産所有権を保証する旨を相互に確認した(ワイタンギ条約)。これにより英国の組織的植民化が加速され,可耕地を求める白人とマオリとの土地紛争は激化の一途をたどって1860年代から70年代初頭にかけて武力紛争がつづいた(英国マオリ戦争)。マオリの敗北でニュージーランドは完全に英国の食糧供給植民地となった。1901年にオーストラリアが連邦国家になった際,ニュージーランドは参加を拒否し,独自の国家建設を選択した。1907年に自治植民地から自治領へ昇格。流刑植民地であったオーストラリアと違い,没落しつつあるイギリス中小農が新天地を求めて移住し建国した経緯もあっていまなお伝統的な英国的性格を強く残している。

【政治】エリザベス英女王を元首とする立憲君主制で議院内閣制を採用している。国会は,一院制で,マオリの特別議席が四つ確保されている。基本的に二大政党制による議会制民主主義が定着しており,オーストラリアと同様に政治勢力は非労働党と労働党に二分されている。現在の主要政党は1984年7月に政権を掌握したロンギの率いる労働党と野党の国民党である。あらゆる政党に共通している政治信条は,生活水準の向上と社会福祉政策の推進。近年国民党は重工業化を唱えつづけてきたが,労働党は環境汚染問題を指摘して大規模な重工業化に反対。婦人参政権が1893年に導入され,老齢年金法が1898年に制定されるなど,福祉先進国である。

【外交・防衛】英連邦のなかで最も英国寄りの対外行動を展開し,第一次世界大戦に際しても英国支援を迅速に決定してオーストラリアとともに参戦。しかし,第二次世界大戦を契機に対米関係の強化がはかられ,防衛政策の面でも1951年にアメリカ・オーストラリアと相互安全保障条約を締結した(アンザス条約)。冷戦下,アジアにおける共産主義の浸透に警戒心をもち,マレー危機に際しては小規模ながら海外派兵を行った。現在,日・米・豪との関係緊密化が外交の基本であり,対外援助政策ではオーストラリアとともに南太平洋を重点地域としている。ロンギ労働党政権は南太平洋非核地帯構想を打ち出し,アンザス条約を堅持しつつも米海軍の核搭載艦のニュージーランド寄港に拒否を表明するなど,西側の核問題に一石を投じている。

【経済】酪農製品の輸出が外貨獲得の道であったため国際市場の変動に影響されやすく,経済構造は脆弱。英連邦の特恵関係で酪農製品を好条件で英国に輸出することで高い生活水準を維持できたが,英国が EC(ヨーロッパ共同体)に加盟するに伴いその特恵関係も消滅し,経済危機に直面した。対外貿易における英国離れはオーストラリアより遅く,1973年の石油危機やインフレ・失業率の上昇は国内経済にいっそうの打撃を与えた。これらを背景に酪農製品の新しい販路として1970年代にはとくに,日本と米国に注目するようになった。また米国資本を積極的に導入して酪農品の加工技術を高めて付加価値をつけ,さらに海底油田・ガスの開発に着手するなど,一方では対外エネルギー依存度を軽減することで貿易収支の悪化を防止する手段にも訴えた。マルドーン氏の前国民党政権での重工業振興も経済立て直しの一方策であった。また1983年1月からオーストラリアとのあいだに「経済関係緊密化協定(CER)」が発効し,両国経済の一体化も徐々に進められている。酪農製品輸出による外貨収入の限界から,1970年代後半より観光業に力を入れ観光立国の道を歩みはじめた。

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